戦争の中を生きた少年時代
1931年(昭和6)9月18日、中華民国の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した。これを関東軍は中華民国の張学良軍の犯行とし、鉄道防衛を理由に軍事行動を拡大。関東軍は一気に中国東北部全土を占領した。この満州事変を起点として、日中戦争(支那事変)を経て米国などの連合国軍と戦ったいわゆる太平洋戦争の終結(45年8月)までを「十五年戦争」という。元高校教諭の古田さんは、大陸で満州事変が起こる約3カ月前、旧日高郡湯川村(現御坊市湯川町)富安に生まれ、日本が戦争の泥沼でもがく苦難の時代に幼少期を過ごした。
父信雄さんは妻アキエさんと農業をしながら、二男二女の4人の子どもを育てた。古田さんは6歳上の姉、3歳上の兄に続く次男。小学3年生までは戦争の相手が中国だけだったが、4年生になって米国との戦いが始まると、村から出征して戦死する兵士も少しずつ増え始めた。
「村の兵隊さんが戦死すると、小学校に樒(しきみ)の門がしつらえられて、講堂で村主催の葬儀(村葬)が行われました。村長が代表して弔辞を述べるんですが、『あぁ悲しいかな、〇〇君は〇〇の戦闘において壮烈なる戦死を遂げ…』といつもまったく同じ調子で、同じ文章でした」。講堂の隅には戦死者の遺影が飾られていたが、戦況悪化とともにその数がどんどん増えていったという。
19年4月、旧制日高中学校(日中=現日高高校)へ入学。日中は5年制課程だったが、当時は3年生(15歳)になると陸軍士官学校や海軍機関学校へ進み、日中の生徒は1年生と2年生しかいないようになり、代わりに「ロクイチ」と呼ばれた陸軍歩兵第61連隊の配属将校をはじめ、軍事教練指導の退役軍人ほか多くの軍人が駐屯していた。古田さんが入学したとき、5年生には黎明会(名誉理事長)の北出俊一さんがいた。「北出さんは学業も武道(剣道)も素晴らしい文武両道の優等生で、たしか卒業される前に広島の海軍兵学校へ進まれたと思いますが、私からすれば雲の上の憧れの先輩でした」という。
3年生以降の進路は兵隊を志願する者もいれば、学徒勤労動員の工場(兵庫県の播磨造船相生工場など)で働く者もいたが、志願先として最も多かったのは少年航空兵を養成する予科練(海軍飛行予科練習生)だった。「3年生や4年生の教室はがらんとしてて、黒板には『今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ我(われ)は』と、国難に立ち上がる防人の歌を書き残していました。15歳で予科練を志願して、2年もすればパイロットとなり、特攻兵として多くの少年兵が沖縄に向かって出撃していきました。15歳、16歳といえばまだほんの子どもですよ。いま思えば信じられませんが、それが当たり前の時代だったんです」と振り返る。
44年(昭和19)6月のマリアナ沖の海戦で日本が敗れると、年末にははるか上空で飛行機雲を引くB29を見かけるようになり、45年(昭和20)になると艦載機も日高地方へ飛んできた。ある日、古田さんが学校からの帰り、家の近くを歩いていると、突然、頭の上で「キーン!」という風を切る音がした。驚いて見上げると、すぐ後ろから米軍の戦闘機が突っ込んできた。周りは田んぼばかりで隠れる場所はない。近くには農作業中のおばさんもいたが、事態に気づいていないのか、まったく逃げるそぶりもない。爆音はさらに大きく迫ってきた。「もうやられる…」。とっさにしゃがみこんで息を殺すと、戦闘機は機銃を撃つことなく山の方へ飛び去った。「逃げるも何も、音がして気づいたときにはすぐそこにいるんです。よくパイロットと目が合ったとかいいますが、本当にそれぐらいの距離で、あのときは本当に死ぬと思いました」。
日中入学当初、学校へは自転車で通っていたが、やがてタイヤのゴムがすり減って乗れなくなり、歩いて通っているうちに今度は靴底に穴があいて履けなくなった。古田さんは戦闘機と遭遇したとき、自分で編んだわら草履を履いていた。
戦闘機と海防艦の決死の戦い
旧制日高中学校(日中)2年生の夏に戦争は終わったが、戦後の学制改革に伴い、古田さんは通常より1年長い6年間の高校生活を送った。戦争末期の1・2年生のころは学生の本分である勉強(授業)はいっさいなく、軍事教練で配属将校が抜いた軍刀が朝日に輝き、身震いするほど怖かった。軍事教練より厳しかったのが校外の山での集団勤労作業で、日高川町和佐にあった「建国山」まで歩いて出かけ、木材の切り出しに汗を流した。しかし、生徒たちが本当につらかったのは、軍事教練でも夏場の造林作業でもなかった。
当時の学校には陸軍第144師団の歩兵第413連隊が駐屯し、3~5年生の空き教室に寝起きしながら、各地で防衛施設の建設を進めていた。校長室は連隊長室、武道場の修道館は下士官の住居兼作戦本部となり、もはや校舎は兵舎だった。何百人という兵士が生活すれば、当然、便所はすぐに排泄物でいっぱいになる。古田さんら日中生は教師からその汲み取り作業を命じられ、交代でし尿の入った桶を担ぎ、便所と学校そばの畑に掘られたドツボ(野壺)を往復。いまとなれば笑い話だが、「あれは泣きたいぐらいつらかった」という。
終戦間際の7月28日朝、富安の家で、目の前の白馬山の上を旋回する米軍の戦闘機を見た。戦後に建設された山頂のテレビ中継塔付近。山の反対側で戦闘が起こっているのか、機銃や爆弾の音が遠くに聞こえ、複数の戦闘機が急降下と急上昇、旋回を繰り返していた。やがて山の向こうから飛んできた砲弾がふもとの田んぼに落下。凄まじい爆発音と同時に、大きな水しぶきが上がった。
のちに分かったことだが、その戦闘機の編隊は由良湾に停泊していた海軍の第30号海防艦と戦っていた。半日以上にわたる戦闘の結果、海防艦は燃料に引火して炎上、深夜になって沈没し、楠見直俊艦長以下、99人が戦死した。古田さんはあの日の光景を振り返り、「家は山から少し離れているので、怖くはありませんでしたが、米軍パイロットの勇敢さに感心しました。眼下の海防艦から対空砲や機銃が撃ち上げられるなか、何度も何度も突っ込んでいく。互いに決死の戦いだったと思います」という。
終戦からしばらくの間、現在の湯川中学校付近にあった片倉製糸紡績の工場跡が、GHQの日高地方の拠点となっていた。白人の米兵を近所の子どもたちが取り囲み、競ってアメやチョコレートをもらう。古田さんはそれを横目に自分も欲しいという顔はいっさい見せなかったが、ジープに乗った米兵がたばこをくわえ、火をつける姿を見てびっくりした。「あそこには、あちこちに残っていた日本軍の武器や弾薬が集まってきてたんだと思います。あの日、私が通りがかったときも、トラックに積み込む作業をしてたんでしょうね。ポケットからライターを取り出し、シュッとたばこに火をつけるのを見て、訳が分かりませんでした」。それまでマッチしか見たことがなく、手品を見せられたような感覚に陥り、思わず「なんな?」と声が出た。
日中卒業後は和歌山高等商業学校(現和歌山大学経済学部)に進み、商業の教員資格を取った。初めて赴任したのは淡路島の県立洲本実業学校で、その後、和歌山へ戻り、1965年(昭和40)から地元の御坊商工(現紀央館)で定年まで勤め、退職後も10年ほど教壇に立った。
日中2年の夏に戦争が終わり、同学年の全員が戦争で死なずにすんだが、「3年生になったら自分も」という意識はどこかにあった。「戦後の日本は世の中の価値観が180度転換しました。その後、私も教師となりましたが、戦前・戦中から子どもたちに教えていた先生はいろんな意味で苦労されたと思います。もちろん、兵隊となった人の親や子どもたちも大変だったでしょうね…」。遠い日の記憶に思いをめぐらせながら、猛暑が続く77年後の今年の夏も、気功や腰痛体操など仲間が集まる地域のサークル活動に忙しい。