不明にして最近まで詳しく知らなかったが、高校の国語が2022年度から変わる。「現代文」に替わって、実用的な文を扱う「論理国語」、文学作品を扱う「文学国語」などの選択科目が新設される。大学入試の傾向からして、多くの場合「論理国語」が選ばれそうだという趣旨の報道を目にした◆「論理国語」は、文の組み立てなど言葉を駆使する技術を培う。「文学国語」は、その技術を使う主体である、人間の心の根幹にかかわる。並列して選ばせるにふさわしい分類の仕方とは、筆者には到底思えない◆意思伝達技術の向上は、社会システムの円滑な運営に役立つ。学ぶことの重要性は言うまでもない。一方、文学や芸術を学ぶことで人が得られるのは、個々の人間それぞれの見識である。物事を自分自身の感性ではかり、自分自身の見解を抱き、自分自身の言葉で表現する。点数をつけるのは難しいが、それは「人としての成長」に通じる。技術力とは違う次元で捉えるべき力ではないか◆文学は、人間存在の本質に言葉で迫る学問である。時代が進もうとも完全に解き明かされることのない、謎に満ちた人間の心に、「言葉」の力を頼りに果敢に迫っていく。その知の試みを一部の人間の特権にせず、すべての人間に開く。それこそが高等教育の意義であろう◆昨今の風潮をみると、社会からうるおいや弾力が音もなく失われつつある。そんな気がしてならないのだが、教育における有用性の優先は、その一つの表れのようにも思える◆完璧な文法で理路整然と、薄っぺらな論を述べる。そんな人ばかりが暮らす未来社会が浮かぶ。もっとも、皆が一様にそうならばその貧しさ、寒々しさに誰も気づかず、日本文化は果てしなく地盤沈下を続けていくのかもしれない。(里)