写真=軍服の左胸につけていた歩兵第61連隊の徽章

連隊の自信と誇りを胸に

「最近、こんな物を手に入れたのですが、日高新報さんは見たことありますか。いまとなっては、けっこう珍しいものだと思います」。印南町印南原の近現代服飾史研究家古田和豊さん(41)がそういって見せてくれたのは、どこかの高校の校章のようなバッジ。大きさは約2㌢。デザインは三種の神器とヤタガラス。聞けば、これはかつて和歌山市内にあった大日本帝国陸軍歩兵第61連隊の部隊徽章(バッジ)とのこと。知り合いに旧日本軍の部隊徽章を専門とする収集家がおり、頼み込んで譲ってもらったのだという。

古田さんによると、1937年(昭和12)当時、国内の各部隊は軍服の襟の部分に隊号章(61連隊なら61)をつけていたが、これでは敵にも一目瞭然となるため、大陸など外地への動員部隊は隊号章を外し、それぞれにこのような独自デザインのバッジなどを作り、軍服につけることがあったという。

通称「ロクイチ」と呼ばれた歩兵第61連隊は、和歌山市の市街地を南北に走る国道42号(中央通り)と県道15号(大浦街道)の間、水門筋(みなとすじ)と呼ばれる市道沿い、14年前まで近畿地方整備局和歌山河川国道事務所があった場所を衛戍地(えいじゅち=陸軍部隊が永久的に駐屯する場所)としていた。現在はそこに残された哨舎(しょうしゃ=警戒や見張りの兵の詰め所)跡と部隊創設100周年を記念して建てられた石碑がかすかに名残をとどめている。

1905年(明治38)5月、日本海軍の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争の勝利を大きく引き寄せた日本海海戦から約2カ月後の7月17日、連隊は動員を下令され、24日には歩兵第8連隊(大阪)、第9連隊(大津)、第10連隊(姫路)、第37連隊(大阪)、第38連隊(伏見)、第40連隊(鳥取)の各補充隊からの編成が完結。新設の第16師団隷下でただちに満州へ派遣されたが、一度も戦闘に遭遇しないまま休戦を迎えた。9月5日の日露講和条約調印後は南満州鉄道沿線に駐屯して警備にあたり、07年(明治40)3月、内地帰還の命を受け、大阪(浜寺)の仮兵舎に入った。

同年9月の陸軍管区改正により、歩兵第61連隊は第16師団(歩兵第31旅団)から第4師団(歩兵第32旅団)へと改編され、09年(明治42)3月、和歌山市が経済効果を期待して準備を進めた海草郡湊村(現和歌山市湊、砂山南周辺)の地に、浜寺の仮兵舎からの移転が完了した。

写真=和歌山市の水門筋沿いに残る歩兵第61連隊の哨舎跡等

その後は長らく動員されることなく兵営での日々が続いたが、満州事変から6年後の37年(昭和12)4月、第4師団が満州への動員を下令され、連隊は関東軍司令官の隷下に入り、三江省湯原(現黒竜江省)に駐屯することが決定。このときの満州派遣に際し、第4師団の各連隊は軍服の兵科別襟章に代わる部隊徽章(バッジ)をつけることになった。

戦後35年目の1980年(昭和55)に発行された写真集「和歌山歩兵第六十一聯隊写真集」によると、ロクイチと同じ歩兵第32旅団の第37連隊(大阪)は河内の忠臣楠公(楠木正成)にちなんで菊水を徽章とし、第61連隊は三種の神器の八咫の鏡、剣、勾玉と八咫烏(やたがらす)を組み合わせたデザインとした。鏡は正義、剣は降魔の剣、勾玉は平和を意味し、八咫烏は紀州の先住民といわれる矢田氏族を表す。すなわち、正義に立脚し、われに向かうものを討ち、平和を打ち立てる――。それは大日本帝国陸軍建軍の本義であるという。

 

歴史伝えるために知らねば

写真=フィリピンの戦いでジャングル戦を指導する佐藤連隊長(左から2人目、「和歌山歩兵六一聯隊写真集」より)

1940年(昭和15)6月、満州の警備にあたっていた第61連隊は中支(中部支那=揚子江と黄河に囲まれた現在の華中地方)への転進を命じられ、駐屯地の佳木斯(ジャムス)から南へ約2400㌔離れた湖北省へ移駐。支那派遣軍第11軍として漢水作戦、豫南作戦、大洪山作戦、江北作戦と華中各地を転戦した。さらに41年(昭和16)8月からは第1次長沙作戦に加わり、9月22日以降、第4師団の中核として中国国民革命軍と激戦を交え、湖南省の省都長沙を攻め落とした。

やがて英米蘭との戦争が始まり、42年(昭和17)2月、第4師団は南方のフィリピンへ転進。フィリピン攻略はかつて歩兵第32旅団長として連隊を率いた本間雅晴中将がトップの第14軍が指揮をとり、ロクイチなど第4師団が投入される前に首都マニラを占領していた。

しかし、マッカーサー極東軍司令官率いる米・比軍は主力をバターン半島へ退避させ、半島の約4㌔先にある要塞(コレヒドール島)に立てこもって抵抗。日本側はいったん攻撃を中止し、態勢を立て直すことにした。第4師団は第2次半島攻略作戦の主力として投入され、4月4日、佐藤源八大佐率いる第61連隊は、第1次で失敗に終わったサマット山の堅塁突破に成功。その8日後、バターン半島は完全に日本軍が制圧した。
5月5日には敵の最後の砦、コレヒドール島への総攻撃を開始。午後11時10分、北部海岸への敵前上陸を敢行し、じつに13時間に及ぶ激闘の末、6日正午ごろ、敵の砲兵陣地に白旗があがり、約1時間半後、敵の守将(マッカーサーの後任のウエインライト中将)が連隊の正面に投降してきた。このコレヒドール攻略戦で、連隊は5月の攻撃期間3日間だけで死者264人、傷者240人、行方不明9人を出した。この第2次バターン半島攻略とコレヒドール要塞攻略の武勲により、42年(昭和17)6月には連隊に対し、比島方面陸軍最高司令官の本間中将より感状が授与された。

コレヒドールの戦いのあと、6月12日に連隊は内地帰還を命じられ、7月6日には和歌山へ凱旋。43年(昭和18)9月、再度の動員命令を受け、10月からはインドネシアのスマトラ島中部の警備にあたった。44年(昭和19)5月には連隊主力がビルマ(現ミャンマー)へ転進。ウ号作戦(通称・インパール作戦)の失敗から英印軍に追われ敗走する第15軍に加わったが、部隊の半数近い772人の死者を出した。その多くは疲労と飢餓、マラリア、赤痢による病死だった。翌年、連隊はタイのバンコク近郊へ移り、次の作戦の準備中、終戦を迎えた。

歩兵第61連隊は平時においても常に国防のための厳しい訓練を続ける一方、大正時代には地域の治安維持のため、県内で起きた米騒動の鎮圧に出動したこともあった。また、8月8日の軍旗拝受記念日を祝う軍旗祭では連隊施設が市民に開放され、分列行進やユーモアたっぷりの仮装行列が行われた。普段は近寄りがたい営門は運動会のような装いとなり、新兵たちもこの日ばかりは無礼講で笑顔があふれ、兵士と市民が一体となって楽しいひとときを過ごしたという。

古田さんが所蔵する資料には、和歌山大学経済学部の前身、和歌山高等商業学校の乗馬部員が連隊の幹部とともに馬頭を連ね、日前・國懸両神宮(和歌山市秋月)で戦勝祈願をしたという新聞記事の切り抜きがあり、主将の松尾四郎君は「この非常時に際して、皆さんが各神社に祈願をしておられるので、我々もじっとしていることができず、連隊のご好意で馬を借りてお参りしたわけです」と話している。

写真=和歌山高等商業学校の乗馬部員が連隊幹部と行った戦勝祈願を報じる新聞記事

国民皆兵が原則だった時代には、徴兵を中心とした県内の20歳前後の男子の一定割合がこの61連隊の兵営で寝食をともにし、親兄弟や親類の誰かしらが関係していたのだろう。日本の人口全体に占める戦後生まれの割合が85%となったいま、ロクイチがこれほど県民に身近な存在であり、陸軍屈指の精鋭だったことを知る人は少ない。古田さんが見せてくれたバッジにも、ロクイチの一員としての自信と誇りが込められていたが、一見してそれが兵士の部隊徽章であると分かる人はほとんどいない。

古田さんは「鉄帽(ヘルメット)や日の丸など誰もが直感的に理解できる物は残る余地がありますが、このような決して印象的でない物は忘れ去られていくのでしょう」という。正しい戦争の歴史、当時の日本人の実態を伝えていくためには、こうした目立たぬ兵士の遺品が何なのか、何を意味しているのかを知らねばならない。