コロナで延びていた令和元年度最終回の市民教養講座がようやく開講した。講師は津軽三味線奏者の踊(よう)正太郎さん。生まれた時から視力がなく、3歳の時、踊りを指導していた祖母がプレゼントしてくれた三味線に夢中になった。祖母への思いを込め、「踊」を芸名にしたという◆6歳で盲学校に入学したが、当時は視覚障害のある人ははり・マッサージ師になるのが当然という時代。学校関係者に「これから(その技術を)しっかり勉強しなければ」という意味のことを言われ、両親は「そんな、子どもの将来を決めつけるようなことを」と反発。全寮制だったが「三味線の稽古があるから」と入寮せず、学校まで往復3時間、稽古場までやはり往復3時間という道のりを父の車で通い続けた。◆高等部を卒業後「プロの演奏家になる」と、学校関係者の猛反対を押し切って単身津軽へ。第一人者、山田千里師の内弟子となった。稽古はまったくつけてくれず「盗んで覚えよ」と言われ、視覚以外の五感をすべて研ぎ澄まして励む日々。修行明けの日に「音に重みが出てきたな」の言葉をもらい「涙が出るほどうれしかった」という◆講演のあと、「津軽じょんから節」などを演奏。あふれ出す心が三味線の音を借りて叫んでいるような、エネルギッシュな音である。1曲弾き終わるごとに息をはずませ、エネルギー消費の大きさをうかがわせる◆16歳で初めてつくったというオリジナル曲「津軽の四季」が特に印象に残った。鋭い音色と伸びやかな旋律が、どこまでもかるがると吹きわたってゆく北の風の響きに聞こえた。強い意志と希望のあるところには、少々の障害物などはねのけて伸びていく力が生まれてくる。そう信じさせてくれる、純粋で強靭な音楽だった。(里)