B29へ決死の体当たり

欧州で第2次世界大戦が始まったのを受け、米軍は1939年(昭和14)11月、超長距離大型爆撃機の開発に着手、44年(昭和19)6月には北九州市の八幡製鐵所を目標として初めて日本に襲来した。大型戦略爆撃機B29だ。

全幅約43㍍、全長約30㍍の巨体は「超空の要塞」と呼ばれ、最大9㌧の爆弾や焼夷(しょうい)弾を搭載することが可能で、戦争終盤の日本に大打撃を与えた。

さらに高度1万㍍近くの高高度から爆撃することができ、日本軍の高射砲では弾が届かないか、届いても命中には困難を極めた。また日本軍の戦闘機もB29が飛行する高高度では安定した飛行ができないうえ、B29には10基以上の機銃が搭載され、四方八方から銃弾を放つ様子はハリネズミにたとえられた。そんなB29を機銃射撃で撃墜するにはかなりの高度な技術が求められた。

そこで日本軍が編み出した戦術の一つが、極限まで軽量化した戦闘機での体当たり攻撃。操縦者を保護する防弾板や敵機を攻撃するための機銃すら取り外し、丸腰状態。整備士からは「ジュラルミンの棺」とまで呼ばれた航空機で、体当たりするという戦術だ。そんな無謀とも言える作戦で最初に命を落とした一人の若者が、日高地方にいた。稲原村(現印南町)山口出身の入山稔氏。大空にあこがれ、飛行機を愛した少年は、帝都防空特攻隊として、千葉県上空でB29に果敢に突撃。乱射される銃弾を全身に浴び、19歳という若い命を散らした。

入山氏は、切目川村(現印南町)羽六出身で出稼ぎで渡米経験をもつ入山岩吉氏の三男として、1925年(大正14)に現在のみなべ町で生まれ、のちに山口へ移った。38年(昭和13)、旧制日高中学校に入学。学業優秀で野球、陸上、剣道などスポーツも抜群。そんな文武両道の入山氏だったが、人一倍飛行機乗りへのあこがれが強く、41年(昭和16)3月に東京陸軍航空飛行学校を受験、見事合格し、同年10月には中学校を中退し、同校に入学した。2カ月後には日本海軍による真珠湾攻撃が行われ、日米戦の火ぶたが切られた。

42年(昭和17)9月に東京陸軍航空飛行学校を卒業し、翌10月に福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に入学。卒業後の43年(昭和18)には埼玉県の熊谷陸軍飛行学校に入学、操縦や空中操作技術を習得し、44年(昭和19年)4月には朝鮮教育隊に移り、実用機による戦技教育を受け、8月、千葉県松戸基地の飛行第53戦隊に配属された。

同年、B29による日本への空襲が始まった。高高度爆撃機に手をこまねいていた軍上層部がひねり出したのが体当たり攻撃。第53戦隊でも志願者が募られた。志願は配られた用紙に書かれた「熱望」「希望」「無印」の3つから一つに丸印を付けるというもの。4人が「熱望」に印を付けた。その中に、最年少兵長の入山氏の姿があった。

 

無数の銃弾浴び空に散る

特攻出撃直前の入山氏について、松戸基地の整備兵だった原田良次氏が1981年(昭和56)に発行した書籍「帝都防空戦記」に詳しい。第53戦隊から特攻隊に志願したのは入山兵長ほか、青木少尉、今井軍曹、大崎伍長の4人。一般隊員から隔離された宿舎に移り、B29に体当たりするための高高度飛行訓練が開始された。軽装備となった特攻機でさえも高度1万㍍を突破するのは難しく、4人は神経をすり減らした。家族に特攻隊になったことを報告する者はいなかった。4人の若者たちは、それぞれ一人で「死」と葛藤しながらも、訓練にいそしんだ。そのせいか、日に日に元気がなくなり、特別食が支給されていたにもかかわらず、体がやつれていく隊員が多かったという。

44年(昭和19)11月24日午前11時すぎ、松戸基地のスピーカーが鳴った。「情報、情報、B29大編隊、小笠原上空を通過」。基地は一気にあわただしくなり、くもの子を散らしたように兵隊たちが動き回った。そして11時半、特攻隊員に出撃が命じられた。

木更津上空を目指して離陸した特攻機4機。隊長の青木少尉は日記でその時の様子をつづっていた。「待ちに待った『特攻出撃』の命下りる。各隊員はお互いにしっかりやろうぜ、と手を握り合って各機に走った。にっこり笑って入山機が出た」。その後、4機はばらばらになり、青木機も敵を発見するも燃料不足で追尾不能となった。14時10分、警報が解除され、出撃機が次々と帰還。特攻機4機中、3機が帰還したが、とうとう入山機だけは戻らなかった。その夜、入山氏は朱に染まった遺体として基地に帰った。

入山機は銚子上空からB29の7機編隊を追跡し、市川上空で外翼1機に体当たりを試みた。しかし敵編隊の80余門の12・7㍉砲の集中砲火に見舞われ、頭部をはじめ全身に数十カ所の銃弾を浴び、あえなく戦死した。大空にあこがれ、飛行兵という夢を実現した少年の19歳9カ月という短い人生の幕が閉じられた。「かえらじと かねて覚悟の若桜 玉と散る身の 今ぞ楽しき」。宿舎に残された辞世の句には、特攻への覚悟が記されていた。

入山氏の実家は山口にあるが、現在は空き家となっている。家を管理している入山氏の甥、新谷芳彦さん(80)=和歌山市在住=によると、原田氏の本が発行された81年にはNHKでも入山氏のことが放送され、多くの人が知るところとなった。放送後には航空学校の同期だった熊本県の古里勇さんという人からも手紙が届き、入山氏の運動神経の抜群さや責任感の強さ、自分の意見を貫く意志を持った人間ということが細かく記されていた。

新谷さんが管理する遺品の中には多くの友人から届いた手紙があり、人望の厚さもうかがえる。遺品には入山氏の遺書や辞世の句、特攻時に身に着けていた紫色のマフラーがある。多くが血に染まり、特攻のすさまじさを物語っている。

新谷さんが生まれた翌年の41年(昭和16年)には、入山氏は航空学校に入学しており、叔父の記憶はほとんどない。ただ、航空学校時代に山口へ帰省した際、軍服姿の入山氏がまだ赤子だった新谷さんを抱っこしている写真が残っている。

新谷さんは「叔父は自分の考えを曲げない人だったそうです。なので飛行機乗りになりたいと思ってからはその考えを貫き、ついに飛行兵になったのでしょう」。現在では考えられないような作戦に、祖国を思う一心で巨大な敵に体当たりを敢行した叔父。その勇ましさとは対照的に、やさしい表情で赤子の新谷さんをあやす在りし日の叔父の姿に思いを寄せ、短い生涯ながらも強い生命の息吹を感じる遺品の数々を大切に保管している。