ここ最近、裁判関係の報道をよく目にした。
「元農水事務次官による長男殺害事件」に懲役6年、新潟小2女児殺害事件は無期懲役判決、「一生刑務所に入りたかった」と無期懲役の判決に万歳三唱した新幹線殺傷事件の被告、「東名あおり死亡事故」では懲役18年の1審判決を破棄し、審理差し戻し、「寝屋川中一男女殺害事件」の1審で死刑判決を受け、一度は控訴した被告が自ら控訴を取り下げ判決が確定したが、大阪高裁が取り下げを無効として控訴審のやりなおしになどなど。
なかでも考えさせられたのは、4年前に埼玉県熊谷市で起きたペルー人の男が、次々と民家に押し入り、何の落ち度もない6人を殺害した事件の裁判についてだ。1審で死刑判決を受けた被告に対し、2審の東京高裁は「精神障害の影響が大きく、責任能力が十分ではなかった」として、死刑判決を取り消し、無期懲役を言い渡した。死刑になったからと言って、被害者の無念やその家族の悲しみが癒えるわけではないが、1審の判決同様、極刑を望んでいただろう。そしてこの判決を1審の判決に関わった裁判員たちはどう感じただろう。どんな凶悪犯の命でも、自分の判断が影響を与えてしまうのは本当に恐ろしいこと。それを乗り越え、被害、加害の両者の立場に立って真剣に向き合い、出した苦渋の決断のはずで、筆者なら「あの苦しみはなんだったのか、なんのための裁判員裁判制度なのか」と思ってしまう。
死刑制度についての考え方も人それぞれで、当然慎重にならなければいけないこと。加害者の人権も尊重されるべき。しかし、判例にとれわれすぎ、揺れ動く判決に、死ぬよりつらい日々と送る被害者家族の人権が置き去りにされているように感じる。(陽)


