栄えた満州での生活

 1931年(昭和6)、柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍は満州(中国東北部)の全土を占領。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、32年(昭和7)3月1日に満州国が建国された。その満州に渡り、日本軍の盛衰を知る美浜町和田の丸山(旧姓=児玉)百合子さん(100)。戦死した弟と一緒に撮った写真を眺め、「かわいそうに」と当時を振り返った。
 1918年(大正7)、当時の川上村(現在の日高川町)皆瀬に、「筏(いかだ)師)」の父安吉さんと母千代乃さんの三女として生まれ、3男4女7人きょうだいの真ん中で育った。道路の整備が不十分だった時代、村では山から切り出した木材を筏にくくり、日高川の急流を下る「筏流し」が盛んだった。そんな筏流しを行っていた父。大勢の人を雇い、毎年春から秋までは朝鮮と満州の境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)で仕事をしていた。
 川原河尋常小学校6年のとき、その父が病気で亡くなり、北鮮(ほくせん、北朝鮮)から遺骨となって帰ってきた。一家の大黒柱を失い、百合子さんは高等科への進学をあきらめ、9歳下の末弟の守りや農業を手伝った。周りの同年代の子が村を離れ、都会へ働きに出るなか、16歳になり、弟に手がかからなくなったころ、満州の安東市(現在の丹東市)で旅館を経営していた叔父から「よそで働くんだったらうちへこんか」と言われ、都会へ出たいと思っていたことから快諾。下関から船で大陸に渡り、汽車で駅に着くと、おばさん(叔父の妻)が迎えに来てくれていたのを覚えている。
 叔父が筏師をしながら営んでいた「高松屋旅館」は、日本から筏流しで働きに来た人らで大忙し。電話を聞いたり手伝いをし、叔父の子ども(いとこ)たちの面倒を見た。家は通りをまたぐほどの大屋敷。にぎやかな暮らしだった。安東には桜の名所として知られた鎮江山もあり、昭和9年、おばさんやいとこたちと花見に行き、満開の桜の下で写真を撮影。いまでも大事にアルバムにはさんでいる。
 満州で2年目の17歳のとき、川上村の祖父から「会いたい」と呼び戻された。再び訪れることはなく、「あのままいたら、ソ連軍に殺されていたかも。おじいさんのおかげ、本当によかった」。終戦後、叔父たちは無事に帰ってきたが、侵攻してきたソ連軍によって、一生働かなくても暮らせるほどだったという財産も大きな屋敷も没収され、裸一貫での引き揚げだった。

戦死前の弟を訪ねて

 のちに満州がソ連の侵攻を受けるとは思ってもいなかった百合子さん。川上村に戻ったあとしばらくして、大阪大正区にあった橋本製餡(現在の橋本食糧工業)という会社の社長宅に奉公に出た。お手伝いさんとして旦那さん(社長)や奥さんの外出について行ったり、お嬢さんのお稽古にお供したり。お嬢さんの結婚で2年ほど熊本へも付き添った。本土への空襲が激しさを増す1944年(昭和19)に川上村へ帰郷。大阪でも熊本でも暮らしは豊かで、食べるものにも困らず、空襲を受けることもなかった。
 「いい目をしたのかな。運がよかった。母に『貧乏人を金持ちの家へ行かすと贅沢になって悪いわ』と言われました」。そう笑う百合子さんだが、3歳下の弟正さんを戦争で亡くした。正さんは海軍所属。42年(昭和17)に呉の大竹海兵団へ母とともに面会に行った。その後、大阪にいたとき、江田島兵学校の正さんから「近く○○方面へ出発します」とだけ書かれた手紙が届いた。「これが最後」と直感し、すぐに江田島へ急いだ。学校に着くと「呉に行った」と言われ、呉では「駅に向かった」。ご飯も食べず駅の改札で待っていたところ、正さんが現れた。「来てくれたんか」、うれしそうに笑った顔がいまでも忘れられない。ほとんど会話もできないまま、甘い物が好きだったという正さんに、奉公先の会社自慢のようかんを渡した。それが最後。正さんは44年(昭和19)11月にニューギニアで亡くなり、川上村で戦死を告げる紙一枚を受け取った。「死にに行ったようなもんや」。いまでも思い出すと辛く、やるせない。
 正さんが亡くなったあと、戦争末期の川上村でB29の墜落も目撃。落ちたのは串本の方で、大勢で歩いて見に行った。捕えられたパイロットはやけどで手がただれ、「敵兵だとしても同じ人間。かわいそうでした」。その米兵がどうなったか知るよしもない。その後、高津尾の病院で玉音放送を聞いたのを覚えている。「負けたんか」。そう思っただけだった。
 29歳のときに教師をしていた寒川の武夫さんと結婚。美浜町和田に家を建て、いまは三男拓司さんと暮らす。ことし2月22日、100歳の誕生日を迎えた。きょうだい7人で生きているのは百合子さん1人だけ。川上村から満州、大阪、熊本の地で激動の時代を生き、「幸せな人生ですよ」とほほ笑む。しかし、大切なものを奪った戦争は大嫌い。平和が続くことを願っている。