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「島の自転車屋さんに下宿していた私は、石川島航空日高工場に動員となりました」と原さん
 大正時代、ヨーロッパを主戦場として戦われた第1次世界大戦で、日本は連合国の一員として勝ち組となりながらも、他の欧米列強の近代兵器と国力のすべてを投入して戦う「総力戦」を目の当たりにし、日露戦争以来、旧態依然の自国の「遅れ」を痛切に感じた。陸軍は人事の刷新と軍制改革を進め、武器・戦術の近代化と国家総動員体制の確立を目指すようになり、昭和に入ると日本の大陸進出が始まり、満州国建国などを経て、12年には支那事変(日中戦争)が勃発。翌年には国家総動員法が制定された。日本も総力戦の戦争を遂行するため、すべての人的・物的資源を政府が統制、軍需に注ぎ込む体制が整えられた。
 御坊市名屋町3丁目に住む原久成さん(83)は、川中村(現日高川町)三佐の出身で、川中第一尋常小学校を卒業後、昭和17年、旧制日高中学校(現日高高校)に入学(第21回生)。同じ川中村出身の人が経営していた市内島の自転車店で、同郷の男子生徒との下宿生活がスタートした。「潔き心を身に占めて 進取の力よどみなく 勤むる五百の健男児」と校歌にあるように、戦前から質実剛健の気風に満ちていた日中。すでに戦争が始まっていた当時、毎朝、校門には上級生が立ち、両足に巻くことを義務付けられていた巻き脚絆(ゲートル)を1人ひとりチェック。巻き方を間違っていたり、きれいに巻けていないときは「巻き直せ!」と怒鳴られた。原さんは陸上部の戦技班に所属し、騎兵銃を担いで走ったり、ボールの代わりに手榴弾を投げる競技の練習に汗を流した。
 陸上部では原さんの2つ上の先輩に、社会医療法人黎明会理事長の北出俊一さんがいて、とにかく真面目で練習に厳しかった。「部員が少しでもたるんでいると、三八式銃や騎兵銃を担いで学校の外を何㌔も走るんですが、日高町の内原駅まで走らされたこともありました。そんなときも北出さんは自転車に乗らず、私たちと同じように銃を担いで先頭を走るもんですから、文句などいえるわけもなく、それはもうすごい先輩でした」。やがてアメリカが本場の野球部は廃止され、生徒たちは教師から陸軍の幼年学校や士官学校に入ることを勧められるようになり、由良村(現由良町)の紀伊防備隊の勤労奉仕、陸軍航空燃料廠の防空壕掘りにかり出された。
 19年4月、学徒動員実施要綱の閣議決定により、学徒動員令が公布された。日中生徒の動員先は播磨造船相生工場(兵庫)、石川島航空日高工場、三菱軽合金松原工場。4・5年生は7月から播磨造船、原さんら3年生は11月から石川島航空と三菱軽合金の2班に分けて動員された。実家が遠くで下宿をしている生徒や汽車通学の生徒は石川島航空、御坊町内や周辺村から歩いて通っている生徒は三菱軽合金へ。下宿生活だった原さんは石川島航空で、「あれはたしか、三菱の方が石川島より30分、工場の始業時間が早かったんだと思います。ようするに朝、工場へ出勤するまでの時間が、動員先を決める基準だったんでしょうね」という。
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いまも御坊の元町に残る市内で唯一の木造3階建て、元「アソビ」の玉置さん宅
 石川島航空日高工場は、御坊市島の現在の大洋化学㈱の場所にあり、海軍機のエンジン部品を製造。日中生は約1カ月の研修のあと、現場で旋盤やボール盤を使って部品材料の切断や荒削りを担当した。毎朝、自転車通学の生徒は工場近くの善妙寺前に集まり、汽車通学生は御坊駅でまとまり、校歌や学徒動員の歌をうたって行進しながら工場の門をくぐった。原さんら下宿生はそれぞれの下宿を引き払い、御坊町内元町の呉服店「アソビ」(通称・あそびや)で教師とともに合宿生活を送った。
 アソビはいまでは御坊市内に1軒しかない木造3階建ての立派な建物で、現在は住宅として、三代目だった玉置昌宏さん(82)が暮らしている。玉置さんは原さんと同じ日中の21回生だが、日中生がここで寝泊りしていたころは印南原(明神川)の親類宅へ疎開し、そこから毎日、御坊の工場へ出勤。「ここでは2階で生徒たち、3階では柔道、剣道を指導していた熱血漢の先生が寝起きしてました。あのころはこの元町もすごいにぎわいで、近所には映画館や遊ぶところもたくさんありましたが、原君らは厳しい先生の監視の下、自由な時間はなかったでしょうね」と振り返る。
 20年になると、石川島航空は原材料の供給が滞るようになり、2月には突然、横浜工場への転属命令が出された。詳しい事情は何も知らされないまま、「日高工場は閉鎖し、北陸の工場に工作機械と工員を集中する。その前に、日高工場の日中生は横浜の工場で機械の操作を習う」という話だった。11日午後、原さんら3年生の石川島組は汽車に乗り込み、横浜へ出発。途中、空襲警報が出るたびに停車した。「あれは名古屋市内だったと思いますが、夜明け前に空襲で汽車が止まりました。外はまだ暗く、遠くで爆音が響き、街の建物が炎上しているのが見えたんです。あのときは『これはえらいとこへ来てしもた。生きて帰れやんかも...』と思い、怖くて体が震えました」。汽車は丸2日がかりで横浜へ到着した。
 横浜工場は東京湾に面した磯子区の工業地帯にあり、最寄り駅は京急本線の杉田駅、宿舎は杉田から二駅離れた上大岡という街にあった。「私は横浜ではエンジンの部品を削る仕事の見習い工でした。御坊からは、塩屋町へ疎開し、日高高等女学校に通っていた山本五十六元帥の二女の正子さんも横浜への転属となりました。当時、『軍神』と呼ばれた山本元帥の娘さんの話は横浜でも広まって、工場の窓越しに地元の男子学生らが正子さんをひと目見ようと、群がっていたのを覚えています」と振り返る。
 5月27日には、500~600機のB29大編隊が横浜市街を空爆。幸い、石川島航空の工場は難を逃れ、日中生も裏山の防空壕へ避難して全員が無事だった。しかし、この空襲のため市街地の汽車が不通となり、5月末には御坊へ帰る予定が10日ほど遅れ、日中生は工場での作業を続けながら、6月12日に全員、御坊へ帰ることができた。その後は教員から「指示があるまで自宅で待機せよ」といわれ、原さんはまた北陸へ行くつもりで、川中村の実家へ帰宅。そのまま呼び出しがないまま、8月15日を迎えた。
 玉音放送は家の中で、両親と3人で聞いた。まだ16歳だった原さんは、戦争がこの田舎の静かで美しい状態のまま終わるとは信じられなかった。「戦争で死ぬことが名誉だと教えられ、そう考えていたし、川中村ももっと悲惨で激しい戦場になると思っていました」。楽しいはずの学校生活は戦争一色、友達と笑い合ったような楽しい思い出も浮かばない。多感な時代を戦争にほんろうされ、67年前の夏を境に世の中が一変した。
 戦後は御坊で木材の会社を興し、27歳で結婚、3人の子どもと5人の孫に恵まれた。8月15日を迎え、とくに戦争の記憶がよみがえることはないが、「汗をかいてくたくたになったり、肉体的に疲れがたまったときには、食べるものがなく、苦しかったあの時代を思い出します。平和で豊かないまの若い人たちに、私たちが食べ物のなかった話をしてもおとぎ話にしか聞こえないでしょう」と笑う。
        (おわり)
 
 この連載は、玉井圭、片山善男、小森昌宏、山城一聖が担当しました。