みなべ町徳蔵、会社員前田秋男さん(36)宅の納屋から、大おじで海軍少尉だった故前田勇吉さんが保管していた戦時中の新聞や雑誌などが多数見つかった。昭和10年代前半から後半にかけての保存状態のいい新聞のスクラップもあり、昭和18年6月の山本五十六連合艦隊司令長官の国葬の記事など、当時を伝える貴重な資料が豊富にそろっている。戦争体験者が少なくなっている中、8月15日の終戦記念日を前に、秋男さんも当時に思いをはせている。
 勇吉さんは、秋男さんの祖父夘之助(うのすけ)さんの弟で、海軍工機学校を卒業してからは教官として活躍。海軍少尉で終戦を迎え、戦後処理にも奔走したという。終戦後、ふるさとには長くとどまらずすぐに大阪や兵庫県に移り、神戸製鋼などで勤務。30数年前に他界した。
 秋男さんが昨年、納屋を取り壊して新築するため中を整理していたところ、天井裏からコンテナ5杯分以上の資料などが出てきた。海軍工機学校のアルバムや新兵の身上書、潜水艦建造技術の本、数式が書かれたノート、多数の教科書など勇吉さんが熱心に勉強していたことをうかがわせる資料がずらり。大東亜戦争(太平洋戦争)の様子を伝える新聞や、記事の内容を写したノート、雑誌「写真週報」(1部10銭)などのほか、「一億敬弔けふ山本元帥の國葬」の大見出し付きの1面トップで山本元帥国葬を報じた昭和18年6月5日付の朝日新聞も残っており、当時の時代背景もはっきりと分かる。町内の歴史に詳しい山本賢さんも駆けつけ「すごく保存状態がよい。語り継いでいくためにも貴重な資料になる」と一点一点をじっくり調べていた。
 在りし日の勇吉さんを知る秋男さんの父・篤男さん(67)は「やさしい人で、私のこともすごく大事にしてくれた。努力家だったんですね」と偲び、秋男さんは「帽子や軍刀など一部の品は目につく所に置いていたので小さいころから記憶にありましたが、ほかにもこんなにたくさんあったとは知りませんでした。難しい漢字ばかりで読むのも大変ですが、勇吉さんが本当に熱心に勉強していたのが伝わってきます。教官という立場で、教え子を戦地に送り出すのも辛かったと思います。戦後、立場は逆転し、上に立っていた者は白い目で見られるようになった。天井裏に隠すように置いていたのもそのためではないでしょうか」と心境を推察した。67回目の終戦記念日を迎えるのを前に、「外地や内地で悲惨な思いをした兵隊の方々がいれば、勇吉さんのように生きていくために必死で勉強した人もいる。いろんな立場の戦争があり、一方から見ただけで戦争を語ることはできないという思いを強くしました。これからも大事に保管しますが、当時を知る資料として学校などで使いたい人がいれば、貸し出したいと思います」と話している。