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学徒出陣で見習士官となった栗本さん(昭和20年3月、上海の兵站宿舎で)
 「あの戦争は、日本がやむにやまれず立ち上がった自衛のための戦いだったんです。最後は手痛い敗戦という形になりましたが、私たちは日本の国を守るために戦場へ行ったんです。断じて侵略のための戦いではありません」。御坊市薗、中町3丁目商店街沿いの「茶免の地蔵」近くにある栗本歯科医院の院長、栗本(旧姓小池)浩さん(88)は関東大震災からわずか2週間後の大正12年9月15日、東京芝白金(港区)で生まれた。日高郡藤田村(現御坊市藤田町)出身の父小池周三さんは東京帝国大(現東大)を卒業して東京市電気局に入り、当時は路面電車の復旧に心血を注いだが、無理がたたって浩さんが生まれてすぐに病気で死去。小学6年生のときには母と兄も亡くなり、自身も肺の病を患っていた浩さんは父の故郷藤田村に住む伯父に引きとられた。
 支那事変(日中戦争)真っただ中の昭和13年4月、旧制県立日高中学校(現日高高校)に入学。大東亜戦争(太平洋戦争)も始まっていた18年4月には旧制浪速高校(現大阪大学)の文乙に入学したが、9月に文科系学生の徴兵猶予措置がなくなり、12月1日、学徒出陣の名の下、20歳で陸軍の高射砲部隊に入営した。連隊本部は大阪市内の住吉中学にあり、学徒兵として、此花区にあった住友金属桜島工場内の陣地で猛訓練がスタート。数カ月後の幹部候補生試験に合格、甲種幹部候補生になると、東京の東部第92部隊電波兵器練習部に派遣された。「電波兵器とは、アメリカに大きく遅れをとっていた電波で敵機を探知するレーダーのことで、派遣されたのはこのレーダー部隊の指揮官を養成する教育隊でした。文科系の私がなぜ、電気関係の部隊に行かされたのか。講義はとにかく難解でした」と振り返る。
 学徒兵の訓練は厳しく、教育は難しかったが、試験に合格すると階級が上がり、それに伴って環境と周囲の対応が変わる軍社会のシステムに驚いた。約1年間の集合教育を終えると学徒兵はみな見習士官となり、栗本さんも大阪の原隊に復帰。陣地を巡察する際も市電や国電はフリーパスで、「腰に軍刀をつり、公用腕章をつけて、それはそれは気分がよかったですよ」。そんな内地での生活もつかの間、20年2月末には南支派遣軍総司令部への転属の命が下り、単独で任地広東へ向かうことになった。
 下関で龍谷大出身の吉村見習士官、京大出身の青島見習士官と落ち合い、朝鮮、満州を経由して上海まで同行した。当時、B29による空襲は本土に比べて少なかったとはいえ、広東まで輸送船に乗るのはあまりに危険すぎると判断。吉村見習士官の提案で、上海の軍司令部に日参して「航空機への便乗」を願い出たところ、それが聞き入れられ、3人は別々の航空機で広東へ行けることになった。「ここでもやはり准士官の階級がものをいいました。兵では話も聞いてもらえなかったでしょう」。自殺行為のような輸送船移動はどうにか回避できたものの、栗本さんはこのあと、「軍隊は運隊」という言葉が身にしみる経験をすることになる。
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「私にいわせれば、日本はいまもアメリカに占領されたままの属国ですよ」と栗本さん(市内薗の自宅で)
 配属される部隊で運命が大きく変わり、戦場ではまさに生死が紙一重の軍隊。昭和20年3月、上海から任地の広東への移動に際し、内地から一緒に渡ってきた3人の見習士官が1人ずつ別の機に乗ることになった。栗本さんはいまにも雨が降りそうな、制空権がないなかでは絶好の曇天下、九七式重爆撃機に乗り込み、上海大場鎮空港を出発。敵のレーダーにとらえられないよう、海上では海面すれすれの超低空飛行を続け、「後部座席の機材に埋もれ、窓から外を見ても波しか見えず、生きた心地がしなかった」が、日没前に台湾の飛行場に無事到着した。
 栗本さんは将校行李を機内に残したまま下ろされ、機長は「明日の朝、迎えにくるから」といって再び飛び立った。しかし、翌日の昼すぎになっても機は到着せず、連絡すら入らない。数時間がたち、「まさか...」と思い始めたとき、「機は昨日の出発後すぐ、敵機と遭遇、撃墜された」との情報が入った。トラックで現場へ向かうと、海岸沿いの林の近くに機体の残骸があった。「自分が空港で下ろされていなかったら...」。冷汗三斗、焦げ臭いにおいと無残な光景にひざが震えた。
 5月になってようやく海軍の輸送機に乗ることができた。香港経由で広東へ到着後、長くはとどまらず、夜間、または雨中の行軍で北上を開始。かつての激戦地、衡陽(こうよう)に着いたころ、赤痢にやられた。血便を出し、ふらふらになりながらも根性で行軍を続け、赤痢はそのうち治ってしまった。その後、将校斥候(偵察兵)として北京までの単独行を命じられた。この時点で日本はまだ拠点都市を押さえていたが、すでに鉄道に線路はなく、栗本さんは線路が外された跡をたどりながらざっと1000㌔、へんじょうか(編上靴)に穴があくまで歩き続けた。7月下旬には北京に到着したものの、電波兵器(レーダー)の機材が届かず、将校教育を受けているうち、終戦となった。
 8月15日、北京の軍司令部の広場で天皇陛下の終戦の詔勅(玉音放送)を聞いた。雑音ばかりでほとんど何をいってるのか分からなかった。東京大空襲、沖縄戦、新型爆弾(原爆)など、兵站宿舎や司令部で耳にした内地のニュースに、敗色濃厚の空気は否めなかったが、最後まで負けるとは思っていなかった。驚きと落胆、「やっぱり」がないまぜになった気持ちで、粛々と機密書類を燃やした。部隊は軍の編成を保ったまま、26日には天津へ移動。国民政府軍の依頼で八路軍(共産党軍)の警戒に駆り出され、武装解除を受けたあとは農耕に従事しながら帰国の日を待った。そのころ、「下士官、将校はすべて銃殺」といううわさが流れ、栗本さんも覚悟を決めたが、デマだった。「怨に報ゆるに徳を以てす」という老子の教えを説いた蒋介石の布告により、ソ連軍の捕虜のように抑留されることもなく、11月、アメリカ軍のLST(戦車揚陸艦)で佐世保へ戻ることができた。
 復員後、歯科医の伯父栗本武八郎さんの養子となり、阪大に復学して自身も歯科医になった。武八郎さんの後を継ぎ、現在も現役。ふだんは穏やかなおじいちゃんも、死を覚悟し、戦地に赴いた過去に関しては表情が厳しくなる。「国あっての私たち。国のために尽くすという精神を忘れてはいけません。戦前の教育は間違ってなかったといまも思います。66年前、日本はポツダム宣言を受諾し、全面的な武装解除を受けましたが、国家が無条件降伏したわけではありません。私にいわせれば、日本はいまもアメリカの属国。日本人はもっと国に誇り、主体性を持たねばいけないと思います」。戦争を知らぬ世代にいわずに死ねない。
 ことしは大東亜戦争終結から66年、真珠湾攻撃から70年目。8月に引き続き、日高地方に住む経験者らを訪ね、それぞれの「戦争」を聞いた。