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松林の墓地に先祖代々の墓と並んで建つ伸一さんの墓
 終戦から10年後の昭和30年の夏、中西家に一通の手紙が届いた。差出人は、静岡県に住む土屋とし江さんという27歳の女性で、「一度、伸一さんのお墓参りをさせてください」という。家族はだれも心当たりはなかったが、父介造さんと母時代さんはこのとし江さんの気持ちがうれしく、「息子のために、ぜひ参ってあげてください」と返事を書いた。しばらくして、とし江さんが1人で美浜町を訪れた。時代さんが松林の中の墓地へ案内し、とし江さんはその晩、中西家に泊まり、翌日、静岡へ帰った。
 それから3年ほどが過ぎたある日の午後、近所の食料品店の女性が大慌てで家にやってきた。「時代さん、前に伸一さんの墓参りに来た女の人によう似た人が、いま、バス停で降りて、墓の方へ行ったで!」。時代さんは「まさか」と思いつつ、念のために墓地へ行ってみると、息子の墓の前で女性が手を合わせている。よく見ると、それはたしかに3年前に来たとし江さんだった。時代さんは少し離れた場所で、松の木に隠れるようにして様子を見ていたが、まるで目の前に生きている人がいるかのように、姿が見えぬ相手と目を合わせて話している。1時間近くが過ぎ、ようやく立ち上がった。時代さんが声をかけるととし江さんは一瞬驚き、「きょうはどうしても伸一さんと2人で話をしたかったものですから...」と、事前に連絡しなかったことを詫びた。
 終戦から63年が過ぎた平成20年12月、雅也さんは知人に兄伸一さんのことなど、戦争をテーマとした講演の依頼を受けた。とし江さんのこともどうしても話したいと思い、静岡のとし江さんに電話をかけ、「兄とあなたのことを話してもかまいませんか」と聞いた。とし江さんは電話の向こうで泣きながら、「かまいせん」と承諾してくれた。そのとき、雅也さんは思い切って、兄ととし江さんの馴れ初めを尋ねてみた。
 伸一さんととし江さんは最初、本屋で出会った。伸一さんの出撃の日が近づいた昭和20年4月1日、手を握ったこともない初恋の相手との別れがやってきた。「どこへ行くの?」と聞くと、伸一さんは「そこだよ」と、目の前の特攻機の武勲を報じる新聞をさした。16歳の少女はなんといっていいのか分からない。こんなにも身も心も健全な青年が死ぬなんて...。「捕虜になってもいい。生きていて」。思いもしない言葉が口をついた。非国民、売国奴という言葉が頭をよぎった。それでも、それが自分の本心であることを自覚していた。駅までの短い道、伸一さんは「泣くことはない」と国家の大事に殉ずる国民の使命感を諄々と説いたが、負け戦の無念さもにじませ、最後に「俺だって、生きていたいよ」と小さな本音をつぶやいた。
 5月になり、知覧基地の伸一さんから最後の手紙がきた。「いつか貴女と一緒に故郷の和歌山へ行こうと思っていました。それが実現できなくて残念です。どうか元気で、幸せな人生を送られるよう念じておくります。さようなら」。 
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「子どもたちに平和の尊さを考えてもらいたい」 中学校や高校で講演する雅也さん
 伸一さんが22歳で戦死したとき、とし江さんは16歳。当時はまだ、軍服姿のかっこよさにあこがれていた乙女心にすぎなかったが、終戦から10年が過ぎ、大人の女性に成長するにつれ、思慕の情が強くなり、少女のあこがれはたしかな恋心へと変わった。27歳で初めて美浜町を訪れ、墓参りをしてから3年、1人で黙って訪れた2度目の墓参り。時代さんが木の陰に隠れていたとき、とし江さんは伸一さんと何を話していたのか。あの日の時代さんにかわって雅也さんが聞くと、とし江さんは電話口でむせび泣きながら、「『あなたと結婚して和歌山で暮らしたかった』といいたくて...」と教えてくれた。
 昭和52年、伸一さんの三十三回忌の法要が済広寺で営まれ、家族がそろって松林の墓で線香をあげたとき、母時代さんが突然、「伸一!」と息子の名前を呼び、墓石に抱きついて大声で泣き崩れた。これまで陸軍に入隊したときも、特攻隊に志願したときも、最後の別れのときも、「お国のために手柄を立てるんやで」と常に笑顔だった母。戦死を告げられたときでさえ、「よかった」と涙を見せなかったあの強い母が、狂ったように人目をはばからず泣き叫んだ。雅也さんもその激情に驚きながら、「どうしたんなよ?」と聞くと、時代さんは「いままでは日本の国、天皇陛下に捧げた子やった。でも、この三十三回忌でやっと私の子になったんや...」。75歳、明治生まれの母が初めて人前で流した涙だった。
 その母も父介造さんも亡くなり、平成8年5月、雅也さんら残された兄妹5人と家族がそろって、伸一さんが出撃した鹿児島県の旧陸軍知覧基地(知覧特攻平和会館)で行われた慰霊祭へ出かけた。「たぶん、みんなで知覧へ行けるのもこれが最初で最後だろう」。そこには国に命を捧げた特攻隊員1036人の遺影や遺品が飾られており、伸一さんの遺品も保存・展示してもらうため、軍服やカメラ、手紙などを持参した。もちろん、静岡のとし江さんにも声をかけ、慰霊祭前日は全員が基地近くの同じ旅館に泊まった。みんなで伸一さんの思い出を語り合った。夜も過ぎ、そろそろ寝ようとなったとき、とし江さんが雅也さんに小さな声で、「伸一さんの軍服を貸してください」といった。雅也さんは迷うことなく、黙って貸してやった。翌朝、食事の前に軍服を返しにきた際、とし江さんの目は真っ赤だったという。このとき、とし江さんは68歳になっていた。
 雅也さんは2年前、人前で初めて兄の特攻死の話をした。予想以上に反響が大きく、以来、小学校や中学校に招かれ、児童・生徒に話をする機会も多くなった。子どもたちは泣きながら話を聞き、後日、「小松さんの話を聞いて、初めて本当の戦争の恐ろしさが分かりました」「いつまでもお元気で、1人でも多くの人にこの話をしてください」などという感想文が届いた。兄の話をするようになって、子どもたちの反応をみるたび、平和と命の尊さを訴えることの大切さを感じるようになった。
 「戦争へも行かず、空襲にもあわず、健康で80歳まで生き長らえることができた。これからは人の幸せ、青春を引き裂く戦争の恐ろしさを若い人たちに伝えていくのが私の務めです。きっと兄も応援してくれていると思います」。この夏もすでに3つの中学校と高校で講演を行い、18日には日高付属中学校で話をする。