20109010-1.jpg ある日突然の妻からの別居通告、離婚をきっかけに、子どもと別れることに深い心の傷を負い、不眠や嘔吐、意欲喪失などの症状が出た日高郡内に住む杉村三郎さん(37)=仮名=は、内科や脳外科の検査では異常が見つからず、精神科を受診した。診断は「うつ病」。自分自身が精神保健に関する仕事をしながら、ミイラ取りがミイラになってしまった現実もショックとなったが、医師を信頼して、「服薬と休養」の自宅療養が始まった。一時は自殺も頭をよぎり、包丁を手にすんでのところで思いとどまったのは、自分を見守ってくれる家族や友人がいたからだった。
 ■光が重たい 医師の診断が下るまで、不眠や食欲減退、吐き気などの症状がうつ病によるものだとは思いもしなかった。処方された薬は抗うつ剤のパキシル、精神安定剤のデパスなど4種類。「しばらく仕事から離れて、ゆっくりする時間をつくりましょう」といわれ、診断書をもらって仕事は休職、1人になった家で、指示された通りきちんと薬を飲んだ。が、症状はなかなかよくならず、突然泣けてきたり、何もしたくない、だれにも会いたくないという思いが強くなってきた。頭の中は離婚したこと、会えない子どものことでいっぱい。腹は減っても、「食べる」という行動を忘れたように食欲はなかった。当然、みるみるやせていき、3カ月ほどで12、13㌔も体重が落ちた。やがて窓から差し込む太陽の光が「重たく」感じるようになり、昼間もカーテンを閉めたまま、電気もつけず、暗い部屋の中で布団をかぶってじっとしているという状態が続いた。
 ■自殺願望から行動に 2週間の休職ではよくなるどころか、薬の影響もあって顔つきは「死んだように」暗く無表情となり、睡眠導入剤を飲んでも不眠はさらに進んだ。医師に「眠れないんです」と訴え、薬の量と種類を変えてもらいながら、休職期間は1カ月、3カ月、6カ月...と長くなっていった。気晴らしのためドライブでもしようと、車に乗って出かけたこともあったが、ハンドルを持つ手が震え、怖くてスピードが出せない。また、家の中でも居間から台所まで行こうとすると、思うように足が前に出ない。「あれ?」。脳が命令しても体が反応しなかった。心身のあまりの苦痛に、かろうじて残っていた意欲さえも消えかけ、杉村さんは少しずつ「こんな自分は生きていても仕方がない」と思うようになり、「楽になりたい」「この世界から消えてしまいたい」と願うようになってきた。まだ、自殺する力は残っている。夕方、薄暗い台所で包丁を手にとり、刃先を左胸に軽く押し当てた。「これで心臓を突き刺せば楽になれる...」。目を閉じ、息が激しくなり、包丁を握る手が震えた。「お父さん」。瞬間、子どもの顔が頭に浮かんだ。その声にわれに返り、皮膚が赤くなった胸から包丁を下ろした。
 ■暗い部屋でゴロゴロ 「1人でいるのはよくない」。それは医師からもいわれていた。1回きりだったが、 自殺への行動が出た杉村さんは実家に戻った。毎日3回、母親が食事を作って2階の部屋に運んでくれたが、はじめはほとんど手をつけなかった。以前、精神科を受診した際、母親に診察室まで付き添ってもらい、一緒に医師から病気の説明を受けたことがあり、母親は息子がいつ見ても寝ているのも、ごはんを食べないのも、「病気が原因」という理解があった。相変わらずカーテンを閉めきったまま、電気もつけず真っ暗な部屋で、聴くともなく、ラジオのAM放送が小さな音で流れていた。本は「字を見るのがしんどかった」ので読まない。テレビはつけていても見ない。たまにお笑い番組を見ても、まったく笑えなかった。また、ニュースで子どもの虐待の事件が流れたときは、あわててテレビを消し、また子どものことを思い出しては、鬱々と堂々巡りの思考に陥った。