御坊は境内で獅子舞奉納
現在のように娯楽が多くなかった昭和のころ、祭りは多くの地域住民が熱狂する一大イベントだった。祭り好きのDNAは今も受け継がれ、日高地方では秋になると祭り一色。時代は変わっても一年で最も大きなイベントといっても過言ではない。
1941年(昭和16)12月に始まった先の大戦中はどうだったのか。実は開戦後も日高地方の多くの地域で規模の大小はあるものの、祭りは行われていた。

「人を見たけりゃ」の枕詞がつく日高地方最大の御坊祭。御坊市立体育館前の元宮から現在の地に遷宮して、2028年(令和10)に350年を迎える小竹八幡神社の例大祭だ。神社が所有する行司会の決議文には今年の祭りをどのようにするか話し合った結果が記載されている。日米開戦前の1937年(昭和12)には「日支事変等の時局に鑑み四ツ太鼓を取りやめ特に厳粛に行う」とあり、神事のみだったことがうかがえる。翌38年は祭礼当日が灯火管制の日に当たるため、宮入の儀を1時間繰り上げて午前11時からとすると記載。開戦直前の41年(昭和16)は「各組祭具は幟、屋台の事。宵宮当日は四ツ太鼓の参加を認むる事」とあり、四ツ太鼓の参加があったことが分かる。開戦後の翌42年(昭和17)は四ツ太鼓の参加の有無は分からないが、御旅所へ行く順番が記され、43年(昭和18)も昨年同様との趣旨の文言。44年(昭和19)は「時局に鑑み神輿渡御は見合すことになりたる。各組は幟および屋台をもって宮入をなし社内に置いて踊り及び獅子舞をなすこと」と明記され、四ツ太鼓はなかったものの神社境内で獅子舞が奉納されたことが分かる。終戦直後の45年(昭和20年)は当初、「氏子中に戦災未だ復旧せざるもの多き、幟のみ渡御に参加すること」と申し合わせたが、10月1日に県より、戦時中取りやめたものは復旧するようにとの通達があり、幟、屋台、四ツ太鼓も参加してにぎやかに行われたという。
小学5年で終戦を迎え、6年で初めて四ツ太鼓の乗り子を務めた三橋元さん(91)は「乗り子をしたのは戦後。戦時中の祭りの記憶はないが、楽しめる雰囲気ではなかったのでは。今、こうやって祭りがにぎやかに行われるのはうれしいこと」と当時の記憶をたどりながら話す。
小竹伸和宮司(56)は「戦時中の行司会では『集人の件』という議題があって、若者が兵隊にとられ、人を集めるのに苦慮したこともうかがえる。創建以来、戦時下、コロナ禍も乗り越えて祭りをつないできた。少子化の中、これからもにぎやかな祭りを続かせるため、以前の御旅所中心の祭りに戻すという考えも含めて、時流に合わせた方法も検討していきたい」と話す。
印南は太鼓に布で音に配慮
周辺の秋祭りはどうだったのか。日高地方の秋祭りトップを飾る山口、印南両八幡神社秋季祭礼「印南祭」。山口八幡神社と印南八幡神社でそれぞれ行われる二つの祭りの総称だ。
山口八幡神社の氏子で地方(あげ)地区の青木盛傳(もりつぐ)さん(88)は小学校低学年だった戦時中の祭りを覚えている。とくに御旅所の印南浜で屋台が競り合うのを見た記憶が鮮明に残っており、「B29に聞こえたら悪いから、太鼓に布をかぶせて響かないようにたたいていた」。はるか上空を飛ぶB29に太鼓の音が聞こえるはずはなく、「若中の引き締めのために言っていただけで、実際は要害山と印南小学校の横にあった通信所とのやりとりが聞こえなくなるから。戦時中は要害山の山頂に監視所があり、飛行機や艦砲射撃などを通信所に伝えていた。これが聞こえなくなると具合が悪かったんですよ」。

当時は若い人が出征していたので、祭りは40代後半、50代以上の年配者が中心だった。御旅所の浜には野島など名田から船で弁当を運ぶ「弁当船」が岸に近づき、歩いてこられないお年寄りも乗っていて、水に入りながら上陸していたのを覚えている。「御旅所は今のように国道や漁港が整備されておらず、時節柄、どの屋台にも『武運長久』の旗を取り付けていました」。印南八幡の祭礼も名物の川渡りを見物したことを覚えていて、「太鼓に布をかぶせていたかは覚えていませんが、潮が浅く、担ぎ手のひざのあたりまでしか水がなかった」と話し、印南八幡の祭りもしっかりと行われていたことが分かる。
10月9日宵宮、10日本祭りで行われるみなべ町西本庄の須賀神社例大祭も、当時の様子が分かる書物が残っており、祭りが行われていたことを証明している。同祭りは勇壮な神輿の渡御、馬駆けのほか、氏子11地区の幟、屋台、獅子舞などが馬場を練り歩き、毎年大いに盛り上がる。祭りを取り仕切るのは代々、気佐藤地区と決まっており、神社の一の鳥居前で宮入りの順番の「呼び出し」を担当。この呼び出しの順番や、御幣、長刀などの“お道具”を誰が持つかといったことを毎年、帳面に書き入れていた。戦時中の昭和17、18、19年の帳面には戦前や戦後と変わらず、神輿渡御のお道具を担当する人の名前、宮入り順が明記されており、例年通り行われていた。
気佐藤地区の堅田眞弘さん(85)は「戦時中の祭りの記憶はないが、祭りは一年中で一大イベント。それは今も変わらない。人口は減っているが、何があってもなくすわけにはいかない。昔も今も、これからも、祭りは地域の宝」と力を込める。
由良町の喧嘩祭りで有名な宇佐八幡神社祭礼、由良祭は、町史によると、紀伊防備隊に海兵隊3000人が駐屯していた昭和12年は県の通達により屋形お渡りは中止、翌13年は神賑行事なしでお渡りのみなどと記載され、昭和19年は中止、翌20年はお渡りを中止して境内で獅子舞を行ったと記されている。
戦時中という時節柄、地域によって対応はさまざまだが、一時的に中止しても戦後すぐに復活しており、祭りの火は消えることなく今に受け継がれている。


