インパール後、英印軍と死闘
1941年(昭和16)12月の開戦から一気に東南アジア諸国へ攻め込んだ日本は、42年1月から英国が植民地としていたビルマ(現ミャンマー)、インドへ侵攻した。目的は長期化する支那事変(日中戦争)の中華民国国民政府を支援する輸送路(援蒋ルート)の遮断。ビルマ、インドともに英国からの独立を目指す国民軍が日本に加勢、日本による統治に反対する勢力は米英中の連合軍につき、ビルマとインド東部、中国南部を戦場として、戦闘は終戦の直前まで続いた。
42年(昭和17)3月、日本はビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)を占領し、5月には全土を制圧。英国に囚われていた独立運動のリーダーを解放、首班に迎えて親日政府を樹立し、43年には東条英機内閣が大東亜共栄圏の仲間としてビルマの独立を認めた。しかし、国家主権のない形式だけの独立に反日運動が高まり、45年3月には抗日武装闘争が始まった。

44年(昭和19)1月、日本は英・印・連合軍の拠点となっていたビルマとの国境に近いインド北東部のインパール周辺の攻略を決定した。熱帯雨林の道なきジャングル、山、川を敵が上から見下ろすなか越えて行かねばならないが、その行軍は食糧と水の補給が届かず、武器・弾薬、装備も不十分。さらに地理的情報も欠くという状況に、内部では合理的反論が噴出したが、直前のシンガポール攻略の前線で指揮を執り、ビルマからのインド侵攻を主張する牟田口廉也中将(第15軍司令官)は、「本作戦は普通・一般の考えでは初めから成立しない。糧は敵によることが本旨である」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。そうすれば敵はすぐ投降することになっている」などとまったく意に介さない。兵站を担う輜重隊(しちょうたい)出身の小畑信良参謀長は上官の師団長に牟田口司令官への説得を願い出たが、結果、小畑参謀長は更迭された。 軍上層部の人情論が作戦参謀の合理的判断を抑え込み、3月、補給を度外視し、戦後、「史上最大の無謀な作戦」として戦史に汚名を残すインパール侵攻が決行された。
日本軍は短期決戦を想定し、3週間分の食糧、弾薬を装備して3方向からインパールを目指した。最大幅600㍍の川を夜に歩いて越え、途中の村で物資運搬の牛や羊、馬を調達しながら、トラックが進めないところは車体や大砲を解体、部品を担いで歩いたが、敵との戦闘の前に体力を消耗した。用意していた食糧がなくなり、英・印軍の圧倒的な戦力の前になすすべなく、司令部がようやく作戦中止を決断したのは進軍開始から約4カ月後の7月1日。この間、戦病死者は約1万2000人をかぞえ、作戦中止から12月末まで半年間に約1万8000人の兵士が敗走中に敵の追撃、病死、餓死、自決によって命を落とした。攻略目標のインパールには1人もたどり着けなかった。
このインパール作戦には増援軍として、和歌山市に拠点を置く歩兵第61連隊など全国から部隊が送り込まれ、戦地で銃弾、病や飢えに倒れた人も少なくない。日高郡塩屋村(現御坊市塩屋町)出身の故井上楠次郎さんは歩兵第106連隊の一員として、インパール作戦終了後のビルマに進駐。各地で死闘を繰り広げ、九死に一生を得て生還した。
人に話せない体験あったのかも
楠次郎さんは1922年(大正11)1月、塩屋町南塩屋で14人きょうだいの6男として生まれた。尋常小学校、高等小学校を卒業後は大阪へ働きに出され、衣料品を扱う会社で数年間働いて塩屋へ帰ってきた。長引く不況は終わりが見えず、大陸進出に活路を求めた日本は中華民国、さらに米英との全面戦争に突入。貨物船の船乗りだった楠次郎さんにも赤紙(召集令状)が届き、兵庫県加古郡神野村(現加古川市)に兵営があった陸軍歩兵第106連隊に入隊した。
44年1月、連隊は朝鮮京畿道龍山(ヨンサン)の旧歩兵第78連隊兵営に移駐し、そこで南方での戦闘を想定した訓練を重ねた。5月には第49師団隷下に入り、近畿出身者が中心の第一大隊、第一・三大隊からの要員で編成する第二大隊、朝鮮常駐部隊を中心とする第三大隊に再編された。
その後、第49師団は南方軍ビルマ方面軍の戦闘序列に入り、釜山から日本の門司、呉を経由して南方へ。第二大隊の楠次郎さんは戦艦武蔵に乗船し、隊長以下221人の仲間とともにシンガポール、ベトナム(サイゴン)、カンボジア(プノンペン)、タイ(バンコク)へと移動した。タイでは日本軍が過酷な労働で多くの死者を出しながら建設した「死の鉄道」、泰緬(たいめん)鉄道に揺られ、3カ月余りにわたる長旅の末、ビルマへ到着。10月5日、キャウタンへ進駐した。

45年2月下旬、英・印機甲部隊がメークテーラに侵攻した。3月2日、出動命令を受けた楠次郎さんら第5中隊122人はマンダレー街道を北上。18日のキニーを皮切りにクエンゲ、キンルーン、シェダン、トーマなどで怒とうのごとく南下する敵戦車群と激しい戦闘を展開した。なかでも、19日から27日間続いたトーマの戦いは一進一退の攻防が続き、「靖国で会おう」を合言葉に斬り込みを繰り返したが、4月12日、ヤメセンの戦闘を最後に転進。5月31日には中隊長が戦死した。ジャングルに倒れ、濁流のシッタン川に流された兵士も多く、最終的に生き残ったのはわずか2割ほどの27人。終戦後は英国軍が管理する現地の劣悪な環境の収容所で2年間の抑留生活を送った。
47年(昭和22)に帰国した楠次郎さんは4年後、32歳で7歳下の惠美子さんと結婚した。惠美子さんは日高郡丹生村(現日高川町)下和佐の生まれで、見合い結婚だった。御坊の小竹八幡神社の近くや名屋にあった市場で鮮魚店を営みながら、二男一女の3人の子を育て、全国各地で行われた連隊戦友会の追悼式には毎年、惠美子さんとともに出席。書家並みの達筆で追悼の祭文を書き、戦友の冥福を祈った。
惠美子さんによると、楠次郎さんはおしゃべりとカラオケが好きで陽気な性格だったが、戦争体験を自ら語ることはなかった。仕事で疲れがたまると、戦場で銃弾を受けた背中に痛みが出たが、それが戦闘による傷であることを証言してくれる戦友がいなかったため、恩給等の補償を受けることはできなかったという。
そんな楠次郎さんが89歳で他界して14年が過ぎ、似た者同士のおしどり夫婦だった惠美子さんは、今月16日で96歳になる。いまは毎朝、NHKの連続ドラマ「あんぱん」を見るのが楽しみ。「あのドラマでも、戦争に行った兵隊さんのシーンがありました。うちのお父さん(楠次郎さん)も戦場でおなかをすかせ、現地の人にもらったゆで卵を殻ごと食べたりしたのかな。実際には、家族にも話せない恐ろしい体験があったのかもしれません」。
終戦から80年という時間が流れ、長く続いてきた日本の平和はいつ壊れるかわからないほど、周辺国との緊張が再び高まっている。惠美子さんは「名もない1人の兵隊さんの話ですが、この地域にも大変な体験をした人がいたという事実を1人でも多くの人に知ってもらい、平和につながればと思います」と話している。


