日高川の流れに乗せて

江戸時代から昭和時代初期にかけて日高川で行われていた筏流し

 日高川の流域には、スギやヒノキの人工林が広がっている。かつて、旧龍神村、旧美山村、旧中津村から切り出された木材は、筏に組んで下流の御坊まで運ばれていた。筏流しは江戸時代から昭和初期まで盛んに行われていた。

 当時は長さ4、5㍍の丸太5、6本をフジカズラで束ねたものを15組ほど連結して筏を組み、筏師が乗って川を下った。滝や急流の多い日高川では命の危険も伴う作業で、中でも龍神の御殿滝(湯本)、桧皮の滝(柳瀬)、鎌滝(甲斐の川)、丸滝(小家)、美山の大滝(串本)、生滝(滝頭)、中津の鳴滝(佐井)、黒島滝(高津尾)は「八滝」と呼ばれる難所。特に串本の大滝は激流が100㍍にわたって続き、筏師が乗ったまま通過できない〝関所〟として知られた。ここでは当初、筏を無人で滝口から落として下流の渕で再び組み直す方法がとられたが、その後、右岸側に筏の通り道となる流筏路(りゅうばつろ)がつくられた。

 一般的に、上流の龍神地区から中津の船津までは筏で2、3日、そこから御坊までは約5時間をかけて材木を運んだ。中津や御坊には筏宿が軒を連ね、にぎわいを見せていた。 こうした難所を熟知し、巧みに筏を操った筏師たちは卓越した技術を持ち、明治末期から昭和の第2次世界大戦末期にかけては、日本海を渡って朝鮮半島の鴨緑江(おうりょくこう)でも活躍した。しかし、1953年(昭和28)の大水害をきっかけに筏流しは終焉を迎え、その後はトラックによる陸路の運搬へと変わった。

 当時の「日高川筏流し唄」を後世に伝えようと、1974年(同49)、元筏師たちによって筏流し唄保存会を結成。昨年4月には最後の筏師と呼ばれた石本幸也さん(享年91)=日高川町原日浦=が亡くなり、現在は小早川淳さん(45)=同町三佐=が中心となって活動を続けている。小早川さんは「筏流しはなくなったが、唄は後世に残したい」と語る。

川のルートから陸上へ

中津温泉あやめの湯鳴滝 (高津尾) 近くに設置されている筏流しの歴史が書かれた石碑

 日高川町原日浦、有限会社赤松運送代表赤松義之さん(85)の父故与三さん(享年85)も筏師だった。20歳ごろから3年間の見習いを経て、1953年(昭和28)の大水害発生まで約20年間、筏に乗り続けた。主に自宅近くで上流から流れてくる筏を中継し、御坊までの舵取りを担ったという。仕事には早朝から出かけ、御坊からの帰りはバスを利用。筏操縦に使う長さ約3㍍の竿は、バスの側面に取り付けてもらっていた。水量が少ない時期には筏の通り道を確保するため川底の石を取り除く「川づくり」の作業にも骨が折れた。

 義之さんは中学生のころまで、筏師の父の背中を見ながら育った。「夏にはアユ釣りもしていたし、本当に川が好きだったのでしょう。冬の寒い日に筏に乗る姿を見ると、体を壊さないか心配でした」と語り、「当時は川遊びをしていると、流れてきた筏に乗せてもらったこともありました。近所の中学生が筏に乗って高津尾の中学校まで通ったこともあったと聞いたこともあります」と振り返る。

 義之さんは20歳ごろからトラックに乗り、材木を陸送する仕事に就いた。その後、運送会社を起業。当時の筏流しには「いまとなっては懐かしい思い出です」。現在は材木を扱っていないが、かつての川の筏を陸のトラックにかえ、亡くなった父と同じ85歳となったいまも運送業に励む。