国民生活に西洋化の波
1921年(大正10)11月、天皇の病状悪化に伴い、皇太子裕仁親王が20歳で摂政に就いた。23年(同12年)9月1日の関東大震災では天皇陛下に代わって、皇后陛下とともに被災地を視察。その際、被害の大きさと人々の苦しみに心を痛めた裕仁親王は、その年の秋に予定されていた久邇宮良子(くにのみや・ながこ)女王との結婚を延期し、翌年1月の結婚の際も、皇后陛下の意向も受けてパレード等のない質素な宴とした。

摂政就任から約5年後の26年(同15)12月25日午前1時25分、天皇陛下が崩御。その日のうちに剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀が行われて裕仁親王が第124代天皇となられ、先帝崩御の喪が明けた28年(昭和3)11月10日には京都御所で即位礼が行われ、本格的に昭和の時代が幕を開けた。
昭和の幕開け、国民の間には新時代繁栄への期待が広がったが、27年(同2)3月には片岡直温蔵相の失言が中小銀行の取り付け騒ぎを誘発。さらに29年(同4)の米国の株価暴落に端を発する世界恐慌が重なり、和歌山県内は農山村の疲弊が深刻化した。日高地方では30年(同5)、日高御坊争議と呼ばれる大規模な小作争議が頻発した。
国の緊縮財政策により物価は下落、関東大震災で発生した不良債権などから生じた金融不安が拡大するも、1930年代に入ると産業は少しずつ力を取り戻した。一方、この時期の日本は中国で陸軍の関東軍が起こした満州事変(昭和6)、その後の満州国建国などが国際社会から厳しい批判を招き、33年(同8)3月には国際連盟を脱退して孤立を深めた。
こうした内外の危機のなかで時代は大きな転換期を迎え、大正後期から昭和の初期にかけては国民生活もあらゆる分野で大きな変化が起きた。マスメディアは軍の動向を報じてラジオの販売台数、新聞の部数を急激に伸ばし、娯楽の映画はサイレントからトーキーへ。都会の歓楽街では西洋発祥のカフエーやダンスホールが人気を集めた。
今年は昭和が始まって100年。戦前、戦中、戦後の激動を経て、平成、令和では何が起き、いまの私たちは過去から何を学び、何をすべきなのか。今月から毎月第1・3日曜付で、国内外の出来事とともに、日高地方の人々の暮らし、社会の変遷をシリーズで振り返る。
御坊でもカフエー流行
1914年(大正3)7月から18年(同7)11月まで続いた第1次世界大戦で、日本は参戦国でありながら本土が直接被害を受けることなく、生糸や綿織物を中心に海外への輸出が急増。それに伴う海運・造船需要の増加が鉄鋼等の重工業、さらに電機などの新産業の成長を後押しした。この大戦景気と呼ばれた空前の好況のなか、国民の暮らしも近代化、西洋文化の波が押し寄せ、都会ではカフエーやダンスホールが若者の間で人気を呼んだ。
カフエーとは、1650年代、フランスのマルセイユにできた店が世界初、日本では1888年(明治21)に東京の下谷黒門町(現台東区上野)にオープンした店が始まりといわれる。日本でも当初はコーヒーや軽食を提供するいわゆる喫茶店(カフェ)だったが、時代が大正に変わるころには別路線の会員制の店や美人女性店員を集めた店(カフエー)が流行し、大正後期から昭和の初めには女性店員が男性客に酒とサービスを提供する営業形態が全国的に拡大。夜の街を彩るカフエーは谷崎潤一郎の「痴人の愛」など多くの小説の舞台にもなった。

大正から昭和の初期にかけて、日高地方では日高郡御坊町(現御坊市)に「北新地」と「南新地」の2つの歓楽街があり、現在の御坊市薗、本町商店街から約100㍍東で南北に伸びる北新地に26年(大正15)6月、日高地方第1号のカフエー「初風(はつかぜ)」がオープンした。
現在、北新地としてにぎわった通り(新栄町)で昭和レトロなカフェテリア「マンマ・ミーア」を経営する木村洪平さん(60)によると、御坊で最初のカフエー「初風」を開業したのは洪平さんの曾祖父松村亀楠さんで、場所は現在の大浜通りに面した交差点の角、いまはもうない稲荷の道向かい。店の名前は、開店の前の年に日本人初の訪欧飛行に成功した朝日新聞社機「初風」からとってつけた。
亀楠さんの長女やすゑさんは、京都出身の料理人木村初三(はつぞう)さんと結婚し、やすゑさんの妹のちかへさんは店の常連客の1人だった俳人の山中不艸(やまなか・ふそう、本名三郎)さんと結婚。この不艸さんとちかへさんの次男が元御坊中学校校長で御坊市の教育長を務めた故木村靖夫(のぶお)さんで、成人後、ちかへさんの実姉・木村やすゑさんの養子に入った靖夫さんの次男が洪平さんとなる。
郷土史研究家の故清水長一郎氏が戦後、地元紙に投稿した「御坊聞書抄」によると、北新地に誕生した初風は人気を集め、開店から3カ月後には南新地に2号店ができた。その後、南北の新地を中心にカフエーは雨後の筍のように続出し、なかでも北新地の「みかど」は最も華やかで人気があった。経営者は米国帰りの川中村(現日高川町)出身の男性で、新地の入り口にあった2階建ての店は部屋数も多く明るく清新だった。当時、ウエイトレスを主人公とした小説や歌が流行し、世はまさにカフエー全盛時代。「夜ともなれば近在の若者は灯火による夏の虫のようにカフエーに集まり、一杯十銭のコーヒを飲み、洋酒をあふり一皿四十銭の洋食を食って青春の鬱を散じた」という。
マンマ・ミーアの木村さんは「私が子どものころの昭和40年代の北新地はまだ道が未舗装で、通りに並ぶ飲食店は時代とともに業種が変わっていましたが、花街(かがい)と呼ばれたかつての面影が色濃く残っていました。もちろん、昔のカフエーは姿を消していたものの、趣味で三味線や小唄をされている方は多く、この界隈では定期的におさらい会(発表会)も開かれていました。祖母(やすゑさん)の家へ行くと、元芸者の女性がよく遊びに来ていたのを思い出します」。
昭和初期のカフエーは、店の名前やロゴマークの入ったマッチが重要な広告アイテムだった。いまではマッチそのものもあまり見かけなくなったが、木村さんは5年ほど前、ネットで「西洋御料理 魚鳥肉すき焼」というコピーと女性のイラストがデザインされた初風のマッチの画像を見つけた。


