三島由紀夫(本名・平岡公威)が死んだのは昭和四十五年十一月二十五日である。その年私は東京の大学に入学した。三島由紀夫の自決の日、私は浅草の酉の市に来ていた。その日はやけに寒く、私はお腹の調子が悪くなり急いで喫茶店に駆け込んだ。喫茶店のトイレで用を足し、一息つき席に着いたそのときであった。ふっと見上げた喫茶店のテレビに映っていたのは、自衛隊のバルコニーで叫んでいる三島由紀夫の姿であった。私は三島由紀夫の最後の姿をテレビで目の当たりにしていた。
三島と親交の深かった村松剛の授業を私は大学時代に受けている。
ある時村松はカナダの大学で芭蕉の講義をしていたときのことを語り、大学院生が俳句を作って持ってきた話をした。「カナダの学生は俳句を作るほど勉強している。日本の学生ももっと勉強しなければいけない」と語っていた。
本作品はそんな村松剛の三島由紀夫論である。実際に接した身からの作品を通して生涯を記したのが本著である。
三島の最初の作品は「酸模(すかんぽう)」である。これを十三歳で書いたというから驚きだ。そして最後の作品が「豊饒の海」四部作である。この三島の四十五年の生涯を見てみると私には決して短い生涯であったようには思えない。本著を読んでいると「酸模」から四部作の最後まで、一般人の九十年くらいの人生を三島は生きたように思えてしまう。すべてを記すことはできないが、私の知る幾つかだけを挙げておく。「花ざかりの森」「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「午後の曳航」「憂国」等。
三島が亡くなる年の十月に著者(村松)は不穏な空気を察して四谷の料亭で会食をした。そのとき村松は三島にこう尋ねた。(本文より)
―文学者がどこかに斬り込んでも気がふれたといわれるだけですよ(中略)
―おれはね、人が家具を買いに行くと言っても吐気がするんだ
―家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ太宰治と同じじゃあないか。
―そうだよ、おれは太宰治と同じだ。
事件後、司法解剖を終えた三島の遺体が自宅に帰った。棺に収められた三島の遺体に、母の倭文重は、
―公威(こうい)さん、さようなら、といわれた。
それが三島の選んだ道であったのかも知れない、と、村松はこの本の最後で記して締め括っている。 (秀)