
先日、自筆の「古今和歌集」注釈書原本が発見されて大きな話題となった中世の歌人、藤原定家。後世に残した仕事としては「小倉百人一首」の編纂があまりにも有名ですが、「明月記」という美しい名の日記に当時の天体観測などさまざまな記録が残されており、その中に、のちに承久の乱を起こし流罪となる後鳥羽上皇の若かりし頃の熊野御幸に随行し、さんざんな目に遭ったことも書かれています。
本書では、和歌山県生まれの歴史小説家が「明月記」にみる熊野詣の実際を分かりやすく解説してくれています。
内容 建仁元年(1201)、歌人藤原定家は後鳥羽院から熊野詣への同行を命じられる。単なる同行ではなく、先駆けとして一行行く先々での各種儀式や食事、宿泊の世話をする役目だった。和歌は得意でも体力的にはまったく自信のない定家は、けわしい道行を思って恐れをなす。果たして、道中は想像を絶するとんでもない苦労の連続だった…。
学校の授業で誰もが習う小倉百人一首。実はこの百首に「定家の壮大な暗号が秘められている」という説を知って以来、定家と後鳥羽院の関係に多大なる関心を持っていました。それは「水無瀬絵図」といわれるもので、全100首をあるルールのもとに並べ、山、川など詠まれた自然物などを絵に直すと、後鳥羽院の離宮(別荘)水無瀬の風景がそのままに表れるというのです。
あくまで一つの説に過ぎないようですが、私は菓子を取り扱う京都の会社のリーフレットでこの説を知り、「本当ならすごい話だ」と感動を覚えました。
定家と後鳥羽院の間には確執もあったようなのですが、一時は権勢を誇りながら乱の失敗で隠岐に配流となった院に対しては、長年の交流もあり特別な思いを抱いていたのではと推察され、古今の歌人による百首の和歌を使って思い出の地を詠み込むタペストリーを出現させるとは、(本当にそうなら)実に壮大なたくらみではないでしょうか。
本書には、完全文系人間がけわしい山道を何日もかかって移動するつらさがひしひしと伝わるように書かれるのですが、神坂氏はその状況におかしみを感じているようで、乗っているだけで体力を消耗する輿の道中、宿にへたり込む様子、棒が倒れるように寝ているのに元気いっぱいの22歳の後鳥羽院に歌会へ駆り出される様子、うっかり忌中の家を宿にしかけて極寒の旧暦11月なのに慌てふためいて清めの潮垢離をして風邪をひきこんだりと、齢40歳の定家の奮闘がどこかユーモラスな筆遣いで紹介。紀伊路では当地方の地名も次々登場します。
こういう大変な交流などの思い出を重ね、乱のあと二度と会うこともかなわなくなった院への思いを「来ぬ人を待つほの浦の夕凪に焼くやもしほの身も焦がれつつ」の歌に詠んだのかもしれないとも思えてくるのです。(里)