やはり大規模戦闘を想定していた

小田さんが見つけた旧陸軍の資料「御坊附近不時着飛行場適地調査表」 (防衛研究所戦史研究センター所蔵)

 マリアナ、フィリピン、硫黄島へと連合国軍の攻勢が続き、日本本土は日増しに米軍の空襲が激しさを増していった。1945年(昭和20)3月26日には沖縄・慶良間諸島への上陸が始まり、6月23日まで約3カ月にわたり、主に沖縄本島で激しい地上戦が続けられた。戦闘には避難しなかった一般市民も巻き込まれ、日本側の犠牲者は諸説あるが、軍人、民間人合わせて20万人に上るといわれる。連合国軍が圧倒的な物量で沖縄に迫るなか、沖縄本島では前線部隊が持久戦で対抗、海上の敵艦に対しては爆弾を抱えた戦闘機が突っ込む特攻(菊水作戦等)が行われた。大本営は「一億玉砕」を唱え、本土での最終決戦の準備を急いだ。

 2017年(平成29)8月、御坊市の日高教育会館で開かれた日高平和委員会の築城施設調査結果報告会で、メンバーの小田憲さんは、自身が東京の防衛研究所で見つけた旧陸軍の「紀伊半島沿岸飛行場及空挺部隊着陸適地調査」の資料について発表した。

 調査目的は、①飛行場適地②不時着陸場③空挺部隊着陸場――の3つ。有田川河口や富田川流域、勝浦付近、御坊平地など県内9地区について、調査を担当する部隊が示されている。御坊平地は空挺部隊の着陸場所として適地かどうかを調べよという命令だが、資料には美浜町の入山の東西への小型飛行場、煙樹ケ浜への不時着陸場の位置を示した略図と調査結果がまとめられている。

 結果の概要は「判決」として示され、それによると、入山の飛行場調査地は東西がいずれも水田地帯であり、飛行場を建設しても北側に山があるため、一方向のみの使用に限定される。さらに、埋め立て等の大量の土砂、大がかりな土木工事も必要となるため、急いで施設を造るには適さない。また、入山の南の煙樹ケ浜は海岸の砂地へ東側からの不時着が可能だが、風向きがまったく定まっていないため、かなりの危険が伴う――という内容になっている。

 和歌山城郭研究会の森﨑順臣さんは元高校教諭の小田さんや湯川逸紀さん(71)=美浜町和田=ら平和委員会のメンバーとともに、日高地方に残るトーチカや横穴の壕、弾薬・食糧等を保管するための地下壕、兵士が移動する塹壕などの調査を行っていたが、その数の多さと範囲の広さが気になっていた。御坊地区(日高地方)は美浜町や御坊の亀山(湯川町丸山)、とび山(野口)、北塩屋(青踏女子短大跡地付近)など7カ所の防衛拠点(築城施設)が築かれており、小田さんが見つけた飛行場適地調査の資料を見て、目からうろこが落ちた。それらはどれも、煙樹ケ浜への敵の上陸と決戦を想定したものだったことがはっきりした。

 45年5月末、米軍は沖縄を占領したあとも日本が降伏しなかった場合、本土へ上陸して地上戦を展開するダウンフォール(破滅)作戦を正式に認可した。最高指揮官はダグラス・マッカーサー陸軍大将。作戦は鹿児島県の志布志湾、宮崎県の宮崎海岸などから九州に攻め込むオリンピック作戦と、千葉の九十九里海岸と神奈川県の相模湾から首都に侵攻するコロネット作戦の二段構えで、オリンピック作戦は11月1日、コロネット作戦は46年3月1日を決行日と想定していた。

 結果的には45年8月の広島、長崎への2発の新型爆弾(原爆)投下で日本は戦争継続を断念、本土への上陸・地上戦は起きなかったが、陸軍は西日本太平洋沿岸への敵の接近・上陸に備え、大量の部隊を配置のうえ、砲座や弾薬集積の地下壕の建設を進めていた。沖縄戦では鹿児島の知覧、鹿屋など九州各地から連日、特攻機が出撃した。日本軍の攻撃はもはや捨て身の特攻しかなく、米軍は都市部への大規模空爆と並行しながら、沿岸部の飛行場、工場を標的とした空襲、とくに特攻機となる戦闘機はその隠し場所まで調べ上げ、艦載機の編隊を投入して破壊した。その執拗な攻撃はそれほど特攻を恐れていた証左であり、特攻用の飛行場建設を急ぐ日本に対し、連合国側はその飛行場を徹底的にたたく戦いとなっていた。

沖縄と同じ悲劇の可能性も

いまも広大な田園地帯が広がる入山の東側(点線円付近)への飛行場建設が検討されていた(西山から撮影)

 1945年6月、沖縄戦が終了すると、連合国軍は本土の飛行場・軍需工場への空襲を繰り返すようになり、連日、夜明けとともに沖合の空母から戦闘機、爆撃機が出撃した。日本の都市爆撃研究家工藤洋三氏(山口県)が自費出版した「アメリカ海軍艦載機の日本空襲」によると、7月24日には英国太平洋艦隊が倉敷、高松、福山など中国・四国地方の飛行場や基地を攻撃目標とし、空母フォーミダブル、インプラカブルなどから発進した艦載機、急降下爆撃機が工場や船舶などに損害を与えた。また、由良町の由良湾で第30号海防艦がグラマン編隊の攻撃を受けた28日は、多くの米英機が本州上空に飛来し、兵庫県相生市の播磨造船所、広島県因島の日立造船三庄分工場などが英軍機の攻撃を受けた。

 日本側は残っている戦闘機を確保するため、機体を飛行場の近くに分散させて隠し、同時に燃料や弾薬を保管する洞窟の構築を進めた。機体は掩体(えんたい)と呼ばれるコンクリート製の格納庫に隠されたが、なかには近くで起きた爆発から機体を守る天井部分のない無蓋掩体もあったという。連合国は恐るべき日本の特攻を阻止するため、空襲の前にB29や写真撮影機で高高度から写真を撮り、戦闘機の秘匿が疑われる場所はさらに低高度から写真を撮影。機体が隠されている位置を正確に割り出して図面を作成し、その破壊を目的とした攻撃を繰り返した。

 このような状況のなか、小型飛行場と空挺部隊着陸場の適地調査が行われた美浜町の入山周辺について、森﨑さんは「やはり特攻機が出撃するための飛行場を建設しようとしたのでは」と考える。その際、近くに機体を隠せる大きな松林があることが重要なポイントになるという。護阪部隊の第144師団が45年7月に命じた県内9地区の飛行場等適地調査は、どこも建設着工には至らなかったが、それ以前には旧那賀郡奥安楽川村(現紀の川市桃山町)で建設が進められた。いまでは「安楽川の桃」のブランドで人気の桃の畑をつぶして造った滑走路の近くには大きな竹やぶがあり、そこを機体の隠し場所として、滑走路までの誘導路の建設も進められていた。入山では広大な松林が絶好の隠し場所となる。

 飛行場を建設すれば、敵は必ず攻撃を仕掛けてくるが、最終的に制圧するには上陸して戦うしかない。「日本はすでに特攻に使える戦闘機もなかったかもしれないが、入山の飛行場は本土決戦のためのおとりのような意味もあったのかも」(森﨑さん)。米軍はオリンピック作戦(九州)とコロネット作戦(関東)を決定したが、その間で上陸するとすれば、大阪に近い紀伊半島が候補となるのはほぼ間違いない。敵の上陸は覚悟のうえ、あえて飛行場を造っておびき寄せ、地上戦になればあらかじめ準備しておいた入山、西山、とび山、亀山の砲台、トーチカ等で迎え撃つ。戦争が長引き、飛行場が建設されていたら、この日高地方で戦史に残る大規模な戦闘が行われていただろう。

 終戦直後、軍は作戦や動員に関する資料のほとんどを焼却処分したという。ではなぜ、この入山の飛行場適地調査の資料は焼却されなかったのか。この点、森﨑さんは長年の戦争に関する調査の中で得た一つの説があるという。

 第144師団は戦況の悪化に伴い、当初は和歌山市内にあった司令部が旧那賀郡丸栖村(現紀の川市貴志川町)に移転した。終戦間際、軍関係の資料はすべて村役場の金庫に移動させようとしたが、資料があまりにも多いため収まりきらず、残りは村会議員など有力者の2軒の家に分けて保管された。本来なら戦後、この3カ所の資料はすべて焼却されるはずだったが、混乱の中でうち1カ所の資料が燃やされなかった。その後、県の職員だったSさん(男性)が残った資料を見つけ、サンフランシスコ講和条約で日本が国際社会に復帰する1951年(昭和26)まで隠し続けたあと、防衛庁にすべて寄贈した――。

 この現存が奇跡的ともいえる資料に示された入山の飛行場適地調査結果を、軍上層部がどのように判断したのかは分からない。軍は建設計画を進めながら戦争が終わったのか、あるいは現場の状況等から建設は不可能と判断したのか。森﨑さんや日高平和委員会の調査でも、当時、地権者に対して用地の交渉が行われたり、何らかの作業に動員された人がいたという情報は見つからなかった。

 入山や亀山でトーチカが築かれ、地元の学生や住民も動員して壕が掘られていたころ、沖縄では米軍が火炎放射器で壕を焼き払い、ガマ(自然の洞穴)に逃げ込んだ住民が追い詰められ、集団で自決した。入山の飛行場は幻に終わったが、もし飛行場が建設され、米軍が上陸していれば、沖縄と同じ悲劇が起きていたかもしれない。
        (おわり)

 この連載は玉井圭が担当しました。