息苦しかったあの時代

日本婦徳の高揚、国防銃後の力を目的として、農漁業にも協力した国防婦人会 (昭和12年ごろ、美浜町) 写真集 「目で見る御坊・日高の100年」 より

 「なんでこんなに長生きさせてもらえるんやろか」と笑うみちさんは、1918年(大正7)5月15日生まれの104歳。日高郡丹生村江川(現日高川町江川)の地主で醤油の醸造事業を手がけ、郵便局長も務めていた父玉置健一郎さん、母ツルヨさんの7人の子どもの次女として誕生した。

 江川小学校時代はまだ第2次世界大戦が始まる前。元号が大正から昭和へと変わり、学校の敷地内には天皇・皇后両陛下の御真影(写真)を安置する施設(奉安殿)があった。入学から卒業まで毎日、朝礼で教職員と全校児童がこの施設の前に整列し、直立不動で最敬礼をしていた。不況の波がじわじわと地方にも押し寄せ、日本全体が暗い戦争への道を歩み始めたなか、才気煥発なみちさんは両親の愛情をいっぱいに受けて育ち、県立日高高等女学校(現日高高校)に進んだ。

 あこがれのセーラー服で通った女学校時代は、「立派な人となれ」「立派な母となれ」「立派な新日本婦人となれ」をスローガンに、生徒手帳の「日高高女生徒必携」には服装、家庭教育、言葉使いなどの心得が示され、良妻賢母としての修行を積み、よき生徒、よき国民、よき婦女子となることが求められた。

 卒業後は洋裁学校へ行きたかったが、父が「学校へ行ったら、何かあるとひどく怒られ責められる」と心配し、大阪で開業医をしていた親類の家に下宿しながら、個人の先生に洋裁を習った。とにかく都会に出たかったあのころ。2年ほど大阪で生活したあと、37年(昭和12)ごろに江川の実家へ戻ってきたが、このとき、自分と江川の家族や周囲の人たちとの間に、感覚的なズレがあることを初めて知った。

 ある日、大阪では当たり前だった洋服を着て、ハイヒールを履いて外を歩いていると、近所のおばさんに呼び止められた。「あんたは何を考えてるの! そんな格好してウロウロしてたら、誰も嫁にもうてくれへんで」と、親戚中から吊るし上げを食らった。なぜ、こんなことでここまで怒られなければならないのか。理解できないみちさんは素直に反省するどころか、逆に「毎日のようにその格好で歩き回ったってん」と振り返る。

 また、32年(昭和7)から日米開戦の41年(昭和16)ごろまで全国に広まった国防婦人会活動では、地域の会長から「退役将校に『婦人会のメンバーも毎日、竹やりを担いで行進しろ』といわれたけど、どうしたものか」と相談された。みちさんはそれを聞いて思わず吹き出し、いつも偉そうな退役将校に対する反発もあり、「なにそれ、そんな恥ずかしいことやめとかんせ」と拒否するよう促した。小学校時代の奉安殿への最敬礼も意味が分からぬまま、子どもなりに「おかしいな」と違和感を覚え、田舎社会の同調圧力に息苦しさを感じていた。

 そんな優しさと強さを持ち合わせたみちさんが結婚したのは、米国との戦争が始まった41年の23歳のとき。知人の紹介で、松原村田井(現美浜町田井)の浄土真宗常福寺の住職をしながら、旧制日高中学校で教師をしていた正信さんと見合いで結ばれた。

 小柄なみちさんは、「結婚相手は絶対に背の高い人」と決めていた。紹介された正信さんに何の不満もなかったが、何より重要な身長が自分とあまり変わらなかった。このときの乙女心のショックは大きく、「もう断ろうと思たんよ」と笑うが、正信さんはみちさんより4歳上の兄真吾さんと同じ日中―東大の出身。1つ後輩にあたる真吾さんは、数学の天才ともいわれた正信さんを日中時代から慕い、尊敬しており、その関係もあって嫁に行くことを決めたという。

草との闘いが長生きの秘訣?

「いまも毎日、草と闘うてます」 と笑顔のみちさん

 みちさんは丹生村江川の旧家に生まれ、きょうだい7人は何不自由なく、戦時下もとくに貧しい思いはなかった。みちさんがまだ小学生だった大正後半から昭和初期のころ、母ツルヨさんは当時の田舎ではほとんど読む人がいなかった雑誌「家庭之友」(のちの婦人之友)を定期購読し、とくに家族の健康、毎日の食事に関して意識が高かった。昼はいつも、2人のお手伝いさんと醤油蔵で働く5人の従業員も一緒に食べていた。おかずは決まっておサバ(煮つけ)と梅干し2個。全員、分け隔てなく同じものを食べていた。

 結婚した1941年(昭和16)の12月、日本は米国との戦争に突入。嫁いできた池上家(常福寺)は質素倹約を絵に描いたような暮らしぶりで、旧制日高中学校の教師だった夫正信さんは背広を作らず、毎日、官製の国民服を着て自転車で出勤していた。みちさんはそんな正信さんを見かね、嫁入りに両親が持たせてくれた支度金で背広と靴を買ってあげたという。

 地元の青年が赤紙を受けて出征するたび、みちさんも婦人会のメンバーとして、日の丸の旗を手に勇ましい軍歌をうたい、臨港(紀州鉄道)の駅まで歩いて見送った。日高地方は45年(昭和20)2月ごろまで空襲はほとんどなかったが、3月以降はB29の爆撃や艦載機による攻撃を受けるようになり、空襲警報が出るたびに家の横に掘った防空壕へ避難。外を歩くときは、緑色に染めた毛布を頭からかぶったこともあった。6月22日には旧御坊町(現御坊市)名屋や旧松原村(現美浜町)にあった軍需工場などが爆撃の標的となり、松原村では浜ノ瀬の地引き網の網小屋に集まっていた漁師ら34人と、吉原の日本アルミ松原工場(のちの三菱軽合金松原工場)で働いていた動員学徒ら17人が死亡。みちさんの家と日本アルミの工場は、西川を挟んで直線距離にして300㍍ほどしか離れていないが、被害を受けることはなかった。

 正信さんとの間には3人の女の子が生まれた。終戦から8年後の53年(昭和28)7月18日に起きた水害では寺の本堂が水没し、着の身着のまま裸足で走り回った。「主人は学校に詰めてて、まだ小っちゃい3人の子どもは、高台に住んでる主人の友達が預かってくれたんよ。私とお義母さんは近くの尾上橋のとこまで来た救助の船に乗せてもうて助かった。あれは戦争よりも怖かったわ」と振り返る。

 正信さんはその後、田辺高校、日高高校の校長を務め、退職後は寺の住職を本業としていたが、95年(平成7)に82歳で他界。3人の娘は全員が町外へ嫁いでおり、寺は77歳のみちさんが後を継ぐことになった。正信さんの勧めで僧侶の資格(得度)は先に取得。車の運転はもちろん、自転車にも乗れないため、通夜や法事はいつもテクテク歩いて訪ね、95歳までお参りを続けた。

 終戦からもうすぐ77年。苦難の戦中・戦後を明るく強く生き抜き、人から何をいわれようと、どんなにバカにされようと、いつも笑って聞き流してきた。そんな仏様のようなみちさんだが、連日のウクライナ危機のニュースには、昭和の戦争を思い出し、独裁の大統領に当時の日本の陸軍首脳が重なる。「私にとって昭和天皇は、子どものころから変わらずきれいなまま。でも、その天皇陛下を利用して、国民にひどい苦しみを強いた軍は恨みました」という。

 104歳になったいまも体はとくに悪いところがなく、365日、寺の周りの草むしりが日課。「私は(ちょっと反応が鈍い)蛍光灯やさかい、人に何をゆわれても腹立てへん。100歳を過ぎてもこうして元気でおらしてもらえるのは、誰かが守ってくれてるんやろか。長生きの秘訣? 毎日抜いても抜いてもすぐに伸びてくる草との闘いかも。草とりばあさんやな」と笑う。