世界中から動向が注目される、ロシアという国家。その複雑な歴史の中でも特にひどい暗黒の部分、スターリン体制下の女達の決死の戦いを描いた長編小説をご紹介します。小説という形をとっていますが、表題になっているオリガ・モリソヴナは実在の人物で、著者の通った学校のダンス教師です。

 物語 1960年、チェコスロバキアの首都プラハ。父の仕事の都合でこの地に来た志摩は、9歳から14歳までの5年間をプラハ・ソビエト学校で過ごした。一番の楽しみは「リトミカ」と呼ばれるダンスの授業。自分では50歳といっているが実際は70歳か80歳かと思われるオリガ・モリソヴナ先生の授業が、面白くて仕方がなかった。「そこの天才少年!」と彼女が言う時は、「うすのろ」と同義。群舞を乱す下手な生徒には「長生きはしてみるもんだ。こんな才能、初めてお目にかかるよ!」。「ぼくの考えでは…」と生徒が反論しようとすると「フン、七面鳥もね、考えはあったらしいんだ。でも結局スープの出汁になっちまったよ」。そして年齢に似合わぬ引き締まった体で、切れのよい完璧な模範演技を披露する。ライオンのたてがみのような金髪に「赤ん坊でも喰らってきたかのよう」に真っ赤な口紅、猛々しい派手な格好をしたオリガ・モリソヴナの反語法は、学校の名物だった。貴族のように優雅なフランス語教師、エレオノーラといつも一緒にいて、この2人はただならぬ秘密を抱えていることを生徒達は察知し、それに触れてはならないと悟っていた。禁忌の言葉を耳にすると、エレオノーラは蒼白になって卒倒するのだ…。

 30数年を経て、翻訳者となった志摩がソ連からロシアに変わったモスクワを訪れ、旧友と共にオリガやエレオノーラの消息を探る様子が、ミステリー仕立てで緊迫感を持って描かれます。外国人の妻というだけで連行され、収容所に押し込められ、いつ呼び出されて銃殺されるか分からない。あまりにも苛酷な、悪名高きスターリン時代。女性達には、男性とはまた違う酷烈な運命が待ち受けていた。わずかな手がかりを頼りに隠された真実が浮かび上がってくる下りでは、若きオリガ・モリソヴナの気概ある生き様が描かれ、感銘を覚えます。

 実在のオリガ・モリソヴナについて、著者は巻末の池澤夏樹との対談で「ソビエト当局が彼女を解雇しろと命令を出し、学校側が『彼女はすばらしい教師で、彼女を失うことが如何に大きな損失か』と長い電文で嘆願書を出した」ことを述べ、取材の過程でその電文を見つけた時は「涙が止まらなかった」と述懐しています。オリガの収容所時代は、著者が詳細な取材をもとに推測したフィクションですが、あり得たかも知れない真実。

 ソ連崩壊時にゴルバチョフやエリツィンの同時通訳として活躍した米原万里の著書は、ロシアの歴史を考える上でも、今こそ読まれるべきと思います。(里)