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それぞれの戦争を訪ねて21③ 山崎 貞男さん

写真=出征前、地元の人たちと山崎さん(後列左から2人目、昭和16年11月)

港もまちも焼いた呉空襲

戦前は「東洋一の軍港」と呼ばれた広島県呉市。卓越した鉄鋼、造船技術を誇り、戦時中は帝国海軍の本拠地として名をはせたが、日本最大の海軍工廠があったまちは、米軍の標的となり、14回におよぶ空襲を受けて、うち6回は特に激しかったという。そんな呉で主に機関科兵として、戦火をくぐり抜けた印南町美里の山崎貞男さん(95)。たび重なる空襲から命からがら生き延び、ヒロシマの惨劇も目の当たりにした。孫やひ孫と眺める穏やかな海に、平和が続くことを願いながら、戦中の荒波を振り返る。

元号が昭和になる直前の1926年6月4日、いまも住む切目川村(現印南町)の美里に、農業の父宗一さんと母シナさんの間に生まれ、2男4女、6人きょうだいの長男として育った。羽六の切目川尋常高等小学校を卒業後、印南の青年学校に入学。大きな農家の長男だったため、徴兵を4度も免れたが、もう逃れられないと志願した。

43年(昭和18)1月6日に海軍へ入隊。「泣かされた」という新兵教育を経て、呉では機関兵として巡洋艦や航空母艦に乗艦した。沖縄に向けた出撃では途中で魚雷を受け、えい航されて何とか生きて港に帰ったのを覚えている。米国との戦争が始まった41年当時、日本海軍はアジア太平洋地域で最大規模を誇った。その拠点が呉。その後、日本海軍は敗退を重ね、壊滅状態となっていったが、呉の軍港には45年(昭和20)にも一部の艦艇が停泊していた。

米軍は日本海軍の息の根を止めようと、同年3月から7月にかけて、執拗に呉への空襲を繰り返した。まずは軍港に停泊していた艦艇への激しい空襲が行われ、これに対して日本側も猛然と応戦。次第に呉市全体が戦場と化し、市民も巻き込まれていった。連日昼夜なく米軍機による激しい空襲が続くなか、7月に入ると、米軍の空襲はいっそう苛烈さを増し、同28日、ついに呉軍港は日本海軍の母港としての機能を完全に失った。

呉の軍港は海底が浅いため、小さな駆逐艦は海の中へ沈没していったが、巨大な戦艦や空母は横転して傾きながら沈み、艦底の腹を見せた状態で次々と着底。山崎さんも幾度となく海に飛び込み、死にもの狂いで陸に泳ぎ帰った。「悲惨で無残な光景でした」。爆撃によって船体の半分が陸へ打ち上げられた艦もあった。

陸では、収容人員1000人ほどの防空壕に3000人が避難。入り口には壕へ入れなかったり、出たところで次の攻撃を受けたりした人たちの死体が転がっており、「ごめんよ、ごめんよ」と言いながら外へ出た。焼夷弾でトタンはハチの巣のように穴が開き、地面からスコップの裏まで至るところに火の柱や火の玉。「ただ逃げるだけ。話にならん。よう死なんかったもんやわ」と振り返った。

 

原爆目撃、終わらない戦争

写真=坂上さんの写真を見ながら当時を振り返る山崎さん

軍港も市街地も焼かれ、呉は「手足のないだるま」になった。「上の人らは(日本が)負けないと思っていたのか知らないが、私たちは言われたまま動くだけ」。その日は朝から陸軍に食料をもらうため広島へ向かっていた。広島までは7里(約28㌔)。最高時速30㌔のディーゼル車を走らせ、ちょうど中間あたりのトンネルを抜けたとき、入道雲のような大きな雲が見えた。「燃料タンクがやられたのかな」と思って見上げた空には米軍の爆撃機B29。8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が落とされたのだった。

十数㌔先に見たのは入道雲ではなく原爆のキノコ雲。その場で待機を命じられ、しばらくして呉に戻った。呉からは救援隊や調査団が派遣され、調査団は日本で最初に原子爆弾の存在を確認。山崎さんは死体の搬送に従事させられた。ある人は頭が倍ほどにはれ上がり、ある人は目玉が飛び出している。男も女も、誰が誰だか分からない。「もうわけがわからん。本当に悲惨としか言いようがなかった」。トラックの荷台へ死体をダイコン積みにし、その上にむしろを敷いて乗った。「明日は我が身かな」と必死で作業するうち次第に感覚がまひ。むしろの上でおにぎりをほお張った記憶がある。

8月15日、日本は終戦を迎えるが、山崎さんにとっての戦争はまだ終わらなかった。呉軍港空襲で日本海軍は大半の主力艦を失ったが、軽微な損傷で済んだ艦艇による「復員輸送」という新たな任務に就いた。戦後、海外の戦地に残された兵士や民間人を軍艦で迎えに行き、艦に乗せて日本へ連れて帰る。米軍が呉軍港空襲の際、無数の機雷を投下していた呉近海を抜け、山崎さんは食料や衣服を配るため、北はアリューシャンから南は西太平洋、赤道近くのポナペまで海を渡った。復員輸送の任務は3年間という話だったが、1年がたち、機関部の修理で因島のドックに帰港した際、希望を出すと任が解かれ、故郷に帰還。帰りの蒸気機関車から見た神戸や大阪のは焼け野原で、難波のまちも真っ暗だった。

復員して数年がたったある日、呉の下宿先として世話になった坂上きみさん夫婦が遊びに来てくれた。自分を家族のようにかわいがり、いつも無事を笑顔で喜んでくれた呉の「おじいちゃん」と「おばあちゃん」。いまでもきみさんの写真は大切に置いている。

24歳のとき、近所で4歳下の貞子さんと結婚した。2男1女をもうけ、孫が8人、ひ孫が7人。おととし、みんなで串本へ1泊旅行に出かけた。そのとき見た令和の海は、戦争を知らない孫やひ孫と同じように穏やかそのもの。「戦争は本当にいややな。哀れなもんだった」と語り、「いろんな人にお世話になって、よく生きて帰ってきたもんや。いまは平和。孫やひ孫に同じ思いはさせたくない」。

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