写真=戦時中の三尾について話す淨さん

敵艦を見張る要所だった三尾

1945年(昭和20)3月、終戦の5カ月前、日高郡三尾村(現美浜町三尾)の逢母地区に、大阪へ向かう米軍の爆撃機B29が大量の焼夷弾を投下。瞬く間に民家に火が上がり、尊い命が奪われた。当時、3歳だった岡本淨さん(80)は、「空襲の記憶はほとんどない」といいながらも、「父から聞かされたことなら」と当時の様子を話してくれた。

淨さんは、太平洋戦争が始まる年の41年(昭和16)5月、三尾逢母にある法善寺の住職鳳堂さん、道枝さんの長男として生を受けた。鳳堂さんは三尾小学校の教師をしており、淨さんには2人の姉がいた。当時の三尾は、紀伊水道の海上交通の要所として、1895年(明治28)に設置された初代紀伊日ノ御埼灯台が明かりを灯していた。明治時代から多くの村民がカナダ(アメリカ大陸)へ渡ったことから「アメリカ村」と呼ばれ、現地からの仕送りや援助を受ける人、財を成し帰国した人、日本で教育を受ける2世などが大勢暮らし、洋風の生活様式を取り入れている人も多い村だった。

大三尾(県道付近を流れる大山谷川以北)にある光明寺の裏山(通称上の山)には、戦前から防空監視所が設置され、村の青年団員が監視にあたっていた。米国との戦争が始まってからは、近隣の村の青年団員も加わって交代で勤務し、空襲警報などのサイレンが鳴らされた。隣には、陸軍大阪通信隊の防空監視所も建てられ、村に駐屯する兵士の食事の世話は村民が行ったという。42年(昭和17年)9月には、初代灯台の北東300㍍に海軍紀伊防備隊日ノ御埼見張所が設けられ、紀伊水道に侵入する潜水艦など敵艦の探知が行われた。戦争末期には、25㍉、12㍉単装機銃なども装備し、高角砲台も築かれ、30人以上の兵士が配備されていた。

まだ幼かった淨さんは、敵機から見つかりにくいように白壁をコールタールで黒く塗りつぶした家や電球を覆う黒い布、食料不足のため、小学校の校庭にサツマイモが植えられていたことを覚えている。「井戸には大事なものが燃えないようにと吊り下げられていました。家の裏の畑には防空壕が掘られ、警報が鳴ると避難しました。中には父が作った簡易ベッドがあり、生後間もない妹が寝かされていました。ジメジメと湿気が多く、ごとびき(大きなカエル)が住んでいました」。

開戦後、快進撃を続けていた日本軍だったが、42年(昭和17)5月のミッドウェー海戦や同年8月からのガダルカナル島の戦いで敗れ、守勢に立たされた。44年(昭和19)6月には、マリアナ諸島に侵攻する米軍を迎撃したが、空母3隻と搭載機のほぼ全て、出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。マリアナ諸島はほぼアメリカ軍が占領。西太平洋の制海権、制空権は完全に敵の手に落ち、大規模な航空基地が建設され、日本本土の大半が攻撃目標となった。これを境にB29による本土に向けた戦略的空襲は本格化し、三尾にも戦火が降り注いだ。

 

空爆で逢母は火の海、6人が犠牲に

写真=空襲の2カ月前、父鳳堂さん、2人の姉とともに淨さん

淨さんの父鳳堂さん(当時35歳)は、体が弱かったため出征はせず、三尾村の壮年団長や逢母部落会長など地域の世話役を一手に引き受けていた。

まだ春の知らせも遠く、厳しい冷え込みとなった1945年(昭和20)3月13日。その日の夜は壮年会の集まりがあり、鳳堂さんは麦の増産について指導講習を受けていた。帰りが遅くなり、入浴していた午後11時半ごろ、警戒警報が発令された。鳳堂さんは風呂から飛び出し、寺の石垣の上からメガホンで「警戒警報発令 警戒警報発令」と近所の人たちに伝えたが、ちょうど寝入りばなで、警戒警報はいつものこと。誰も起きてはこなかった。鳳堂さんも敵機はそのまま三尾上空を通過すると思ったが、万一のことを考えて巻脚絆を巻いて床に就いた。

しばらくすると「パン、パン」と異常な音が聞こえ、同時に空襲警報が発令された。日付は変わり、14日の午前1時ごろ。鳳堂さんは飛び起き、寺の生垣の上から集落を見渡すと逢母地区は火の海だった。相当な数の人家が燃え、空にはB29が翼を連ねて北へ進んでいる。「パン、パン」という音はB29から投下された焼夷弾が空中で炸裂する音で、花火のように落下した。法善寺の境内でも油脂焼夷弾の破片がいくつも燃えており、火叩きに水を浸して懸命に消火した。

燃えている民家の火は勢いが強く、鳳堂さんは、法善寺も焼けると覚悟し、本堂の阿弥陀如来を壇上から降ろし、寺に燃え移ったらそれを担いで逃げる用意をし、集落の消火作業に向かった。妻道枝さんは、産後の肥立ちが十分でない体で、家財道具を裏の畑に出し、火災に備えた。淨さんと生後8日の妹は、防空壕で夜を明かした。

鳳堂さんらは日ごろ、空襲に備え、「焼夷弾をさがして消せ」との指導で消火訓練をしていたが、実際は火事を見つけた時点で辺りは火の海。バケツリレーも消防団も間に合わず、一瞬にして21軒が灰になった。

そんな中、那須藤吉という勇敢な人がいた。那須さんは、逢母地区北東の山中にある大山池に走り、凍てつく寒さのなか池に飛び込んで樋を抜き、小三尾一帯の水路や枯れた田んぼに水を引き入れ、延焼を食い止めた。鳳堂さんはのちに、「この水がなかったら、逢母地区は全滅していた。火の手があと50㍍西に延びていれば、龍王神社も法善寺も焼け、小学校も燃えていただろう。そうなれば、東風にあおられ三尾全体に広がっただろう」と話していた。

カナダ移民が多かった三尾の空襲については、地域に英語を話す住民がいたことなどから、スパイが標的として指示を出したという説もささやかれたようだが、この日は大阪大空襲が行われた日で、太平洋を渡ってきたB29が大阪へ向かう際の目印にするため、三尾に大量の焼夷弾を落としたと言われている。「続日高郡史」によると、逢母への投弾量は「後片づけで集められた焼夷弾薬きょうは馬車で2車あったといわれている」と記されているのみで、実際のところは不明となっている。

目印のために落とされた焼夷弾で、大阪から疎開していた孫とひ孫と一緒にイモの貯蔵用の穴に逃げ込んで焼死した家族4人と、火から逃れようと井戸に飛び込んだまま亡くなった夫婦の計6人が犠牲になった。

鳳堂さんは淨さんに伝えるだけでなく、「私が死んだら書く者がいなくなる」と、1985年(昭和60)3月、三尾の空襲を後世に伝えるため日高新報に寄稿。「戦争は絶対にしてはいけない」と訴えた。そして昨年、淨さんも次の世代に残そうと、戦争を含めた幼い頃の三尾の記録を本にまとめて出版した。

淨さんは「三尾には空襲の4カ月後、機銃掃射と小型爆弾の投下で全焼した初代灯台の弾痕が残るれんが塀や防空監視所の石垣など戦争遺跡が残っています。そこからは紀伊水道を見渡す美しい景色が見えるので、眺望を楽しみつつ、当時に思いを馳せ、平和の素晴らしさを感じてもらえれば」と話している。