写真=父勇次郎さんと弘章さん

幼いときに父が応召、戦死

日高町原谷の出身で、約3年前まで御坊市内で青果店を営み、現在は和歌山市西庄で暮らす田嶋弘章さん(82)は、1939年(昭和14)6月15日、農業を営む父勇次郎さんと母花子さんの長男として生まれた。この年は、日本軍とソ連軍の間で衝突(ノモンハン事件)が発生。数年後に日本が空襲に見舞われると思ってもいなかった弘章さんの家族は、炭焼きや農業をしながら生活していた。

暮らしに変化が訪れたのは、日米開戦後の44年(昭和19)3月のこと。父が海軍から赤紙召集(徴兵)され、広島県呉市にある新兵の教育を行う呉海兵団に入団することになった。当時4歳だった弘章さんや生まれたばかりの妹は、勇次郎さんと会えない日々が続いた。

夏になり、家族は勇次郎さんとの面会を申し込み、呉で再会することを許された。母や叔父と一緒に汽車に乗り、呉で一泊して会いに行ったことは今でも忘れられない。そしてそれが、弘章さんにとって父との最後の別れとなった。弘章さんが5歳のときだった。

その後、勇次郎さんは広島県佐伯郡大竹町(現大竹市)の大竹海兵団に編入となる。戦局が悪化する中、大量の新兵を教育する必要があった海軍は、呉海兵団の敷地だけでは足りず、各地に海兵団を新設していた。勇次郎さんもそういった事情から、大竹海兵団に編入されたものと思われる。

大竹海兵団は、40年(昭和15)12月に開設され、以降15万人以上が基礎訓練を受け、各地に配属されていった。勇次郎さんは主計兵の教育を受け、44年(昭和19)11月、岡山県児島郡福田村(現在の倉敷市水島)の倉敷航空隊に転属。主計兵とは、経理事務、軍需品、軍服などの被服、兵糧などの調達、調理等を担当する職種で、軍隊にとっては欠かすことのできない重要な後方支援職である。

倉敷航空隊は約4500人もの志願者を募った予科練乙種飛行予科練生第22期を教育するため最後に新設された教育飛行隊で、急いで開設するため約3カ月で農地等を接収し、11月1日に開設された。勇次郎さんもこの改編に伴って異動になった。

倉敷航空隊は45年(昭和20)6月22日、水島空襲による延焼で大きな被害を受けた。しかし、勇次郎さんはその直前の16日、朝鮮半島南部にあった海軍の要衝、鎮海(チネ)の鎮海海兵隊へ転属することになり、福岡県の門司港から陸軍の徴用船泰久丸(2128㌧)に便乗、出港した。

鎮海は1904年(明治37)、日露戦争の日本海海戦の際の連合艦隊集結地となり、16年(大正5)には鎮海要港部が設置された。41年(昭和16)に鎮海警備府に昇格するなど、以後、日本海軍の軍港都市として発展した。44年(昭和19)2月には人事部が設置され、本土防衛の拠点として強化されており、主計兵である勇次郎さんの転属にもつながったと考えられる。

泰久丸は釜山に向けて航行中、福岡県若松市(現北九州市)沖で機雷に接触して沈没。勇次郎さんは34歳の若さで戦死した。

 

戦後は遺族会活動に尽力

写真=「今度は孫と一緒に父の慰霊に行きたい」 と優しい表情で話す弘章さん

 

1945年(昭和20)6月、父勇次郎さんが戦死したことを知らなかった弘章さんは、このころから原谷の上空を、大型の米軍機が飛んでいくのを目撃するようになる。7月に入ると、由良の海軍基地に向かって原谷付近の上空を低空飛行する米軍機を何度も見た。突然敵機が飛来し、防空壕に駆け込んだことは鮮明に覚えている。

終戦後、生還した元日本兵らが近隣の家などに歩いて帰ってくるのを弘章さんは何度も目にしたが、自分の父親はなかなか帰って来ない。そのたびに悲しい思いに打ちひしがれたという。そして敗戦から2、3年後、国から死亡告知書が届き、勇次郎さんの戦死が判明した。

「墓を建てるとGHQに壊される」という噂が流れたが、田嶋さん一家は勇次郎さんを弔うため、すぐに墓を建てた。墓を壊されることはなかったものの、勇次郎さんが海で戦死したことから、「海に引っ張られてはいけない」と母に教えられ、海で釣りはしなかった。

「母だけでなく、家族全員が大変辛い思いをしました。他の遺族もみんな同じだと思います」。戦後、弘章さんは母の手一つで育てられたが、経済面や精神面でも父のいない生活は辛かったという。
父への思いや苦労から、弘章さんは県遺族会日高郡青年部の立ち上げに奔走し、65年(昭和40)ごろには青年部を結成、初代副部長を務めることになった。戦死者の親の世代が高齢化し、遺族会としての活動が十分にできなくなったことから、遺児同士が集い情報交換をしたり、法要等の行事を維持していくための組織が必要だと感じたからだった。

青年部では、苦しい生活を送っている遺児たちのために遺族年金の相談にのったり、遺骨収集事業の支援等も行った。県遺族会や近畿、東海ブロック単位の青年部の研修会を毎年開催し、戦争の記憶を風化させない取り組みにも力を注いだ。

毎年行ってきた法要行事に対しては、「中止すべきだ」という世間の一部の批判があり、中止に追い込まれそうになったこともあったが、中止を求める人たちと直接話し合いをして、何とか存続できたこともあったという。そのとき弘章さんは勇次郎さんの遺影を見せて、「この顔を見てやってください。私の父なんです。戦争で亡くなりました。追悼をやめることだけは絶対にできません」と譲らなかった。それだけ、弘章さんの父勇次郎さんに対する思い、遺児ら家族の戦死者に対する愛情は強い。

勇次郎さんを弔うため、現場に近い北九州市若松区の港から海に酒をまいて追悼したこともある。「いま、孫が九州の大学に通っているので、コロナが収束したらもう一度、今度は孫を連れて若松に行きたいと思います」。

父が戦死し、戦争が終わって76年目の夏を迎え、弘章さんは「戦争は絶対にしてはいけないことです。どれだけの人が苦しい思いをするでしょうか。本人はもちろん、戦争が終わった後には、遺族の苦しみが続いていきます。その思いを受け止めるためにも、英霊の追悼は続けていかなければならないと思います」と力をこめて話す。