飛行機乗りが夢だった

1944年(昭和19)6月、日本はマリアナ沖海戦に敗れてサイパンが陥落し、絶対国防圏が崩壊した。大本営は▽フィリピン▽台湾・南西諸島▽北海道を除く本土▽北海道――の4方面を新たな国防要域とし、敵が攻めてきたら陸海空の戦力を結集する捷号作戦を立案した。

10月18日、フィリピン奪回を目指す米国と豪州連合軍がレイテ島に迫り、日本は捷一号作戦を発令。第一航空艦隊の実働戦力はわずかに40機程度しかなく、決戦を目前に特別攻撃隊が編成された。敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊――。本居宣長の和歌にちなんで名づけられた隊員たちが、敵艦に体当たりする十死零生(じっしれいしょう)の神風特攻隊として出撃した。世界の戦史にも類を見ない特攻は終戦まで続き、延べ9500人以上の若者が戦場に散っていった。

日高町萩原に住む花道柳太郎(りゅうたろう)さんはいまから75年前、特攻隊員として出撃しながら奇跡的に生還した。

40年(昭和15)3月、尋常高等小学校を卒業した花道さんは、中学校に進みたかったが経済的な理由で断念し、担任の先生に翌春開設予定の岐阜県の各務原(かかみがはら)陸軍航空廠内の陸軍航空技能養成所を勧められ、入所することになった。3年課程の養成所はラッパで起き、ラッパで食事、ラッパで就寝の軍隊生活そのもの。学科を半日、訓練と実習を半日という厳しい毎日のなか、初めての休暇で実家に戻るとき、10分だけ飛行機に乗せてもらった。「まだ子どもだったから、とにかくうれしかった」。飛行機への憧れは一気に高まり、士官学校の受験を目指し、就寝時間になっても布団の中でこっそり教本を開き、勉強に励んだ。

41年12月、日本はハワイの真珠湾を攻撃。ついに米国との戦争が始まり、緒戦の快進撃も開戦から半年後のミッドウェーの敗北から劣勢に回り、以降は防戦一方となった。養成所を卒業した花道さんは、同陸軍航空廠で戦闘機の整備を担当。整備担当は試験飛行に搭乗することもできたが、「私はまだ若く、そんな仕事(試験飛行)はまったくさせてもらえなかった」という。

43年12月、戦線拡大でさらなる人員補充が必要となり、陸軍は新たに陸軍特別幹部候補生(通称・特幹)制度を制定。花道さんはこれを受験して合格、44年4月、1期生として滋賀県の第8航空教育隊に入隊した。同年9月、熱望した操縦士はかなわなかったが、栃木県の宇都宮陸軍飛行学校へ入校し、航法を学んだ。「航法士」は航空機の乗組員の1人で、航空機の位置や針路を測定し、操縦士に示すナビゲーター。花道さんはこの技術を習得し、同年12月、念願の「空中勤務者」となった。

グアム島を制圧した米軍が日本本土攻略に向け、小笠原諸島硫黄島の強襲を開始した45年2月、航法士となった花道さんは、重爆撃機の戦隊として編成された陸軍飛行第62戦隊に入隊。終戦までに歴代8人の戦隊長のうち4人が戦死、または殉職。全飛行戦隊の中で最も多い戦隊長の死亡者を出した戦隊だった。

狂気の跳飛弾訓練、大刀洗へ

陸軍飛行第62戦隊は、敵の前線後方にある司令部や生産施設などの戦略目標を破壊するため、大量の弾薬を一度に投下できる重爆撃機ばかりの戦隊。主な使用機は皇紀2597年(西暦1937)に採用された日本初の本格爆撃機、九七式重爆撃機(7人乗り)、皇紀2600年(1940)に開発された一〇〇式重爆撃機「呑龍」(8人乗り)、戦争末期に実戦投入された四式重爆撃機「飛龍」(8人乗り)。花道さんが入隊した1945年(昭和20)2月当時は、茨城県筑波郡作岡村(現つくば市作岡)にあった西筑波飛行場で訓練を行っていた。

隊の中は上下関係がなく、驚くほどアットホームだったが、訓練はとにかく厳しかった。このころはすでに南方で多くのベテラン操縦士を失い、陸軍は若い操縦士の育成に力を入れていた。62戦隊でも離着陸だけでなく、低空飛行などの訓練が繰り返された。

訓練で最もつらかったのは、「跳飛弾(ちょうひだん)攻撃」と呼ばれる爆撃訓練。敵艦に海面すれすれの超低空で近づき、爆弾を投下し、船体に命中させる。実地訓練は海軍の飛行場があった大分県の海で行われた。約3000㍍上空から海面近くまで急降下し、敵艦に見立てた練習空母の数百㍍手前でコンクリートの模擬弾を落とし、敵艦に衝突しないよう回避しながら急上昇する。誰もが「これは特攻ではないのか」と疑っていたこの訓練中、忘れられない事故が起きた。

その日は風が強く、大分湾は波が高かった。跳飛弾訓練を行う岩本機に搭乗するよう担当の見習い士官から指示を受けたが、花道さんは前夜から下痢が続いており、「できれば見合わせてほしい」と願い出た。すると、見習い士官は「じゃ、俺が代わりに乗ってやろう」と交代してくれた。しばらくして訓練が始まったが、岩本機は海上で二つに割れて墜落。この事故で4人が亡くなり、花道さんの代わりに搭乗した見習い士官も死亡、中隊長の岩本大尉ら2人が入院した。

のちに聞いた話では、岩本大尉の「もっと下げろ」という指示で操縦士がぎりぎりまで高度を下げた瞬間、前のプロペラが波頭を切ってしまい、とっさに操縦かんを引き上げると、今度は機体の尾部が波に当たった。航法士の席は飛行機の一番前。「あの日、私が腹痛を起こさず、いつものように乗っていたら、間違いなく私が死んでいました」。

3月18日、62戦隊は本拠の西筑波へ戻り、その日に初めての特攻命令が下った。標的は浜松の南方を北東に向かって進行中の敵機動部隊。花道さんに出撃命令は出なかった。出撃した3機のうち2機は敵機を見つけられず帰還し、残る1機と戦果確認機は戻らなかった。

4月12日、62戦隊は沖縄での特攻「菊水作戦」への参戦が決まり、花道さんらは総員、福岡の大刀洗(たちあらい)飛行場へ前進した。西筑波では出陣式が行われ、沢登正三戦隊長が隊員にゲキをとばした。最初に飛び立つ一番機には戦隊長らが乗り、次に二番機、花道さんは三番機だった。

戦隊長が乗る一番機(岩本機)は離陸直後、なぜか急角度の上昇姿勢をとり、失速して墜落、炎上した。二番機と花道さんの三番機は離陸を中止したが、すぐに出発しなければ大刀洗への到着が夜になってしまう。夜間着陸ができる操縦士は少なかったため、再度、出発せよと指示があり、花道さんら三番機は燃え盛る戦隊長機を眼下に、大刀洗へ向かった。

なんとか日没前に大刀洗上空まできた花道さんが見たのは、10日ほど前に艦載機の猛爆で無残な姿になった飛行場だった。「滑走路は穴だらけで、ところどころで時限爆弾が爆発していて、まだ爆発していない爆弾に危険を知らせる赤い旗が立てられていた」。その異様な光景はいまも忘れられないという。

大刀洗に到着してまもなく、整備中の花道さんの機に、離陸に失敗した戦闘機が突っ込むという事故が起きた。花道さんは近くの民家へ水をもらいに出かけていて難を逃れたが、激しい衝突音を耳にして急いで現場へ戻ると、整備兵が機体と機体の間に挟まれ、懸命の救助もむなしく何人かが亡くなった。

このとき、花道さんは兵舎代わりに寝起きしていた旅館の娘のフチ子さん(当時16歳)にもらったお守りのマスコット人形を機体にぶら下げていた。機は使いものにならなくなったが、壊れた機体にぶら下がって揺れる人形を見て、「ああ、俺はこの人形に助けられたのかもしれない」と思った。

特攻機を失った花道さんらには、3㌧の巨大爆弾(さくら弾)を搭載した「さくら弾機」が与えられた。飛龍を改造した最新鋭の特攻機で、敵の空母を一発で撃沈する最後の切り札として、その存在は最高機密とされていた。(続く)