激戦のフィリピンで6年

日米開戦直後の1941年(昭和16)12月22日、日本は米軍の支配下にあったフィリピン・ルソン島に上陸。米比軍を率いるマッカーサーは同24日、マニラの無防備都市宣言を行い、撤退。年が明けて1月2日、日本軍は首都マニラの無血占領に成功した。3年近くたった1944年10月、米国など連合軍は本格的に奪還に着手。日本海軍が迎え撃つ形でレイテ沖海戦が勃発した。

戦艦大和が出撃し、双方合わせて20万人の兵を動員した史上最大の海戦ともいわれたこの戦いに、日本軍は敗北。続くレイテ島の戦いにも敗れ、対する連合軍は45年1月にルソン島に上陸。2月3日にはマニラへ突入し、3月3日までの1カ月に及ぶ市街戦「マニラの戦い」はし烈を極め、日本軍はこの戦いだけで死者1万2000人を出し、敗退。3年に及ぶマニラ支配は幕を下ろし、激しい戦闘は終戦まで続いた。日本本土と南方資源地帯の中間にあったフィリピンは大戦中、激戦地となり、日本軍、連合軍、地元市民も含めて多くの戦死者を出した。みなべ町滝の西口さんはそのマニラに送られ、終戦後の引き揚げまで約6年間、死線をくぐりながら生還を果たした。

1920年(大正9)2月27日、新次郎さんとブンさんの長男、8人きょうだいの2人目として生まれ、小学校を卒業後は京都の反物屋に丁稚奉公に出された。召集令状が届いたのは開戦後すぐ、まだ京都で生活していた21歳のときだった。旧南部町の小学校で徴兵検査を受け、甲種合格。和歌山市の通称「ロクイチ」、陸軍歩兵第61連隊に入隊。61連隊は開戦前、上海に展開し、開戦後の17年2月にはフィリピンに転戦。第2次バターン攻略戦、コレヒドール島攻撃にも参加して戦果を挙げた。

和歌山で新兵教育を受けたとき、営庭をよく走らされたが、マラソンが得意だったことから上官に認められ、自信がついた。すぐにフィリピンに配属されることになり、約1200人の大隊編成で和歌山を出港。途中、敵の攻撃を受け、フィリピンに到着したときは半数にも満たなかった。

西口さんは運よく攻撃には遭わず、ルソン島西部のリンガエン湾にたどり着いた。そこからコレヒドールを経て、マニラまでの50里(約200㌔)の移動が始まった。サトウキビ畑の中を歩き、途中からはトラックに乗ってマニラに入った。街の人々は比較的裕福な暮らしをしていたという印象。現地で静岡の部隊と合流した。マニラでは、友好的だった地元住民をたばこの報酬で雇って畑を耕し、イモのようなものを植えた。後から送られてくる新兵たちもたくさんいた。「『トンボ蝶々も鳥のうち、電信柱に花が咲く』って言って、入ったばかりの新兵はクズっていう意味でよくいわれていた」と記憶をたぐる。

42年6月のミッドウェー海戦に敗れて以降、日本は制海権を失い、次第に本土からの支援物資も届かなくなってきた。飢えとの闘いが続く生活。「小動物やヘビ、ネズミ、なんでも食った。獲物を捕まえたらドラム缶に入れるんです。それを料理人が調理してくれる。『たろめし』っていって、犬も食べた」。なんでもそつなくこなした西口さんは、各小隊から1人ずつが選ばれる中隊長の世話係に就いた。十数人の世話係の中でも甲と乙の2人は位が高く、世話係のまとめ役となる最も高い甲に西口さんが選ばれた。

フィリピン奪還を目指す連合軍の侵攻とともに、44年ごろから戦況は日増しに悪化した。西口さんらはマニラの山手を転々としながら常に死と隣り合わせになるが、世話係になったことが後に命を拾うことになる。

 

死んだ仲間の親指を靖国へ

1945年(昭和20)2月3日から3月3日までのマニラの戦いで日本軍は敗走し、首都を奪い返された。

西口さんたちは1個分隊約60人で行動し、主にマニラの山の中を転々とした。「戦闘は昼間はあまりなかった。夜ばっかりだった」。昼間は豪を掘ったり小屋を建てた。「1畳ほどの広さしかないところで6人が寝た。砲撃があると、地響きで天井がボロボロ落ちてきた。はじめは立っているような状態だが、朝、目が覚めると折り重なるようにうまいこと6人が寝ていた」。夜は常に死と隣り合わせ。銃を持ってはいたが、弾はたった1発。敵と遭遇しても、なすすべはなかった。暗闇の中、敵からの攻撃を受けることもしょっちゅうあった。「敵の銃撃の中に曳光弾も発射され、辺りが照らされるんです。そうすると的ですよ」。

ある日、夜に川を渡ろうとしていたとき、敵の銃撃を受けた。上官からは「突撃!」の命令がかかった。「そらもう、突撃の命令が下ると、猫も杓子も前を向くのみ。川を渡るのに目の前で仲間がバタバタと倒れた。でも、私は中隊長の世話係だったので、『待て』の命令が出た。曳光弾の光が届くのは10㍍ほど。少し離れれば的にされない。だから私たちは生き残れた」と世話係だったおかげで九死に一生を得た。

本当にたくさんの仲間が死んでいった。砲弾の直撃を受けた兵は吹き飛ばされ、18㍍ほどの高さに成っていたヤシの実に、体の肉片がついていた。空襲も容赦なかったが、いったん飛び去って戻ってくるまでに時間がかかっていたので、その間に走って逃げ回った。昼間、トラックで移動している時に銃撃されたこともある。仲間が隣で死んだが、西口さんは破片が右足の太ももに当たっただけで、特に手当てもせず、少し傷が残った程度で済んだ。マニラで仲良くなっていた静岡県の仲間が死んだときは言葉を失った。すぐ近くで頭を撃ち砕かれ、包帯を巻いてあげられる状態でもなかった。遺体を焼いたあと、親指の骨を大事に持ち続け、のちに本土に帰ったあと、靖国神社に持って行った。

終戦もマニラで迎えた。その後、連合軍の捕虜となり、水運びなどをしたことを覚えている。たくさんの日本兵の引き揚げを見送り、順番が回ってきたのはかなり後の方だった。

戦後、結婚し、乳牛の飼育や炭焼きの仕事に精を出した。子どもや孫、ひ孫らに囲まれ、100歳になった今年2月には小谷芳正町長からお祝いを受けた。あの夏から75年、マニラでの経験の記憶は断片的になってきたが、当時抱いていた思いは今でもはっきり覚えている。「戦争に行くのは当たり前で、行きたくないとは思わなかった。生きて帰れるとは少しも思っていなかったし、死ぬことは怖くなかった。マニラには引き揚げまで6年ほどいたが、命のやりとりばかりで、楽しいことや悲しいことを考えている余裕なんてなかった。ただ一つ、死ぬときは心臓に弾が当たってコロッと死にたい。それだけだった」と振り返る。

「そら、大勢死んだ。戦争は残酷や…」。激動の1世紀を生き抜いた西口さんは今、静かに平和のありがたさをかみしめている。