空襲に怯え、悲痛な思い

大戦末期、空襲に怯え、悲痛な思いをした御坊市島の竹田(旧姓=山﨑)玉枝さん(92)。同郷で出征を見送り、戦場から命からがら帰還した夫一雄さんの体には、無数の傷跡が残っていた。一雄さんが戦地からふるさとへ送った大切な写真を見ながら「よく生きて帰ってきてくれたもんや」。毎年8月になると、「戦争は悲惨なことばっかり。平和が一番です」と戦中や一雄さんの体験談を思い出す。

玉枝さんは1928年(昭和3)4月13日、日高郡切目川村(印南町)美里に、農業の父宗一さんと母シナさんの長女として生まれた。2歳上の兄から8歳下の妹まで2男4女、6人きょうだいの上から2番目。羽六の切目川尋常小学校を卒業後、同じところにあった和裁の学校へ通った。日米開戦後、戦況が悪化するにつれ、山あいの田舎にも、食糧や物資不足の影響が出てきた。家族は祖母と両親、きょうだい合わせて9人。玉枝さんの主な役割は毎晩の食事の用意と草履編みだった。農家だったため、サツマイモのつるを細かく刻んで炊き、米と麦の飯に入れた混ぜご飯は食べられたが、疎開してきた人はそうもいかない。父親に見つかると、叱られるが、子ども心にかわいそうで、こっそり分けてあげたのを覚えている。

当時、家の前には馬に与える草を広げて干していた。空襲警報が鳴り響くと、その草の中へ潜り込んだり、弟や妹を連れ、防空壕へ走って逃げたりした。そんなある日、壕の外からこっそり見上げた空に、日本の戦闘機が見えたと思った瞬間、米軍機が現れ、空中戦が始まった。「パンパンパンパン」という音と、機関銃の発射か機体の損傷で散る火花。「日の丸がついた日本の飛行機と違ってアメリカのんは真っ黒。崎山(切目)の方で機銃掃射を受けたっていう話も聞いてたし、爆弾を落とされないかと怖かった」と話す。

終戦間際、女子挺身隊として、美浜町吉原の三菱軽合金工業御坊・松原工場(現ダイワボウプログレス㈱和歌山工場)に動員され、航空機の部品づくりに従事。けがで入院した際、病院に血まみれの「兵隊さん」が戸板に乗せられて運び込まれ、そのとき聞いた「お母さーん、お母さーん」という断末魔の声は今でも耳から離れない。けがが治って仕事に復帰すると、入院中、空襲で工場がB29の標的となり、仲間が犠牲になったと聞かされた。そのうちの一人、お世話になった寮母の「イマイさん」は爆弾が直撃。見るも哀れな姿だったと聞いた。思い出すと今でも涙がこみ上げる。

夫の傷痕に平和願う

終戦後、美里の実家に帰った玉枝さん。一雄さんの家は前の小川を挟んだ向かいだった。一雄さんは延べ10年以上にわたる出征から無事帰還、結婚当時は御坊に出て、魚市場に勤めていた。小学生のころ、古井の郵便局前で戦地へ見送った相手。右肩には銃弾の貫通した跡が残り、右足の甲は身がそがれて陥没していた。

一雄さんは歩兵第53連隊に所属し、朝鮮から満州、支那、南方のインドネシア、ビルマ、ニューギニアまで戦地を転々。前線の食糧難は深刻で、白米は何年も口にできず、ときには数十㌢の大きなムカデを食べ、飢えをしのいだという。爆弾で足をけがした南方では、高温多湿な気候から傷口に「ウジ」がわき、すぐに腐った。その身を短剣で桃の実をそぐように落とし、海へ入って塩水に漬けたが、あまりの痛さに何度もうなり声を上げた。

最後の戦地となったラバウル(ニューギニア)では、船で一緒に渡った何百人の仲間のうち、生還できたのは10人ほど。敵の車が生存者がいないか、山積みになった日本兵の死体をひきにきた。「パチパチ」と骨が砕ける音。地獄を見るようだった。そんなニューギニアでの激戦の中、前から飛んできた敵の銃弾が右肩を貫通。部下が「竹田曹長殿ー」と血をふきにきてくれた。「かまわなくていい」と言ったが、部下の体が自分に重なったとき、部下に銃弾が命中。即死だった。「自分がけがをしなければ、部下を死なすことはなかった」。83歳で亡くなるまで、そう言って悔やんでいたという。

玉枝さんの大切なアルバムの中に、数少ない一雄さんの軍服姿がある。そのうちの1枚は、ラバウルへ渡る直前、有り金をはたいて、実家の母親に送るため撮ってもらった。「とても辛抱したんでしょう。『どんな辛抱でもできる』と言って、食べるものに文句は言わず、『畳の上で死ねるなら本望』とも言っていました。本当にいい人でした」と思い返す。

玉枝さんは美里から御坊に移り住んで約70年。一雄さんとの間に2人の娘をもうけ、孫が6人、ひ孫が3人いる。きょうだいは昨年亡くなった弟以外、自分を含めて5人が健在。姉妹4人で、月に1回のペースで集まったり、出かけたりして楽しく過ごしている。

「お父さん(一雄さん)が生きて帰ってきてくれたからこその今。きょうだいも仲良く長生きさせてもらっています。戦争は大嫌いよ。かわいい孫やひ孫に同じ思いはさせたくない」と平和を願う。