3月17日の神戸大空襲に遭遇

アニメ映画化された野坂昭如の小説「火垂るの墓」、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」、妹尾河童の「少年H」。これらには1945年の神戸大空襲の模様が克明に描かれる。神戸市は、45年1月3日から終戦までのおよそ8カ月間に大小合わせて実に128回もの空襲を受けた。中でも3月17日、5月11日、6月5日は特に激しく、この3回でほぼ神戸市全土が壊滅した。

日高町小坂で長女一家と暮らす山田君代さん(94)は神戸市の出身。1926年(大正15)4月20日に神戸市兵庫区で、川崎重工に勤める淡路米蔵さんと順さんの第3子、長女として誕生した。子ども時代の神戸は海山の恵み豊かな町で、有馬の伯母さんが持ってきてくれる採れたての野菜や新鮮な魚、肉もたくさん手に入り、豊かに過ごすことができた。父が出勤する時は5人の子どもが玄関に並び「行ってらっしゃい」と声をそろえる。父は「行ってきます」と全員の頭をなでて出かける。幸福な時代だった。

日米開戦は、君代さんが女学校生だった41年12月8日。その時には、学校から「前畑頑張れ」で知られるベルリン五輪の記録映画を見に行っていた。「美の祭典」という題で、勝敗より民族を超えたスポーツの美しさをたたえる作品だった。それを見て学校に戻ると講堂に呼び集められ、開戦を知った。「あの時のことはよう忘れません」。

2年生になると戦争が激しくなり、体育の時間は分列行進やなぎなたの練習。救護訓練として近くの日赤病院へも駆り出された。英語は敵性語となり、外国人の先生は帰国。「学校ではなんにも勉強できませんでした」。43年(昭和18)3月の卒業時には、戦地へ行った男性の代わりに女性が銀行や大きな会社で働くようになっていた。君代さんは進学を志していたが、学生はすぐにも学徒動員されそうな状態。校長先生に勧められ、東須磨小学校の助教となった。17歳にして「先生」と呼ばれる身になり、3年生の男子組を受け持つことに。集団疎開へもついていった。行き先は兵庫県龍野市(現たつの市)で、揖保川のそばにある寺で3カ月、子どもたちの世話をした。食事は貧しく、おやつは炒った豆だけ。いつも空腹だった。

川崎重工で造船技師の設計部長を務めていた父は、戦時中は軍艦の設計にかかわり、軍属になっていた。何人かの若者がいつも書生として家にいたが、父が母に「男の子にはできるだけ、無理をしてでもいいものを食べさせてやりなさい」と言うのを聞いたことがある。戦後になって知ったのだが、当時は人間魚雷「回天」の設計にもかかわっていたという。「それはつらかったと思いますよ。いけないことだと思っても、言えるものではないし。戦地で命を落とすかもしれない若い人たちに、少しでもいいものを食べさせてあげたかったんでしょう」。

45年(昭和20)。19歳になっていた君代さんは中1の弟を連れ、両親の田舎である和歌山県日高郡比井崎村(現日高町)の産湯へ行くことになった。2月に和歌山県の教員資格を取るため御坊の郡役所へ行き、採用の受諾を得て準備のため神戸へ戻った。

そこで、3月17日の神戸大空襲に遭遇することになる。

 

ほんの少しの時間差で助かった命

その夜、遠くの方へ焼夷弾がポツポツと落とされ始めた。見上げると、夜空を光りながら落ちてくるそれは「まるで花火のようにきれいでした」。落下はだんだん、家の方へと近づいてくる。「公園の方へ逃げるように」と指示が出たが、父が仕事に出て留守という状況の中、19歳の君代さんは「家を守らなければ」と責任を感じ、母親と弟2人とともにぎりぎりまで残っていた。しかし焼夷弾は雨のように降り注ぎ、とうとう家が燃え出した。君代さんたち4人はしっかり手をつなぎ、「絶対放したらあかん」と言い合いながら家を出て新開地の方へ走った。「三角公園」と呼ばれた公園の防空壕を目指したが、着いた時にはすでに人がいっぱいでとても入れない。銀行の陰で身を寄せ合ったところで公園のトイレがコンクリートであることを思い出し、急いで向かった。が、そこも満員で仕方なくその陰にうずくまり、ひっきりなしに落ちてくる火の粉に耐えた。前の人の服に落ちてくる火の粉を、ただ手で叩いては消し続けたのを覚えている。空気は耐え難いほど熱く、辺りには水もない。「もう駄目か」と思った瞬間、そばの家が「ゴーッ」と焼け落ちた。風がさあーっと吹き抜け、やっと楽になった。「助かった」と思った。

長い夜が明け、家族4人ともけがもなく無事だったことを喜び合った。しかし、朝の光の中に見えてきたのは、路上に横たわる大勢の人の無残な死体だった。防空壕に入った人たちは、蒸されるようにして亡くなっていた。

「私たちはたまたま防空壕に入れず、トイレの陰にいたから助かった。ほんの少しの時間の差でした。何が助かるきっかけになるのか、誰にもわかりません」。
探しに来た父と無事に出会うことができ、5人で焼け跡を歩いて家を見に行くと、街は完全に丸焼けとなっていた。その場で、君代さんが弟2人を連れて和歌山へ逃げることが決まった。

元町駅まで歩いて阪神電車に乗り、大阪から天王寺へ。汽車に乗り、一日がかりで内原駅へたどり着いた。ちょうど大阪から帰ってきた産湯や阿尾の人たちと一緒になり、恐ろしかったことを話しながら伯母の家へ。穴だらけのオーバーを着て、一日分の着替えとおにぎりの入ったずだ袋のみという姿に伯母は驚き「なんと、それだけで来たんか」。君代さんは「お世話になります」と言ったきり、疲れがどっと出てその場にへたり込んでしまった。

神戸っ子だった君代さんはその日から紀州の人となり、8月15日の敗戦を産湯で迎えた。その後、小学校の教員となり、同僚の山田新一郎さんと結婚。とても本が好きで、詩をつくるのが趣味の人だった。新一郎さんは1977年(昭和52)、56歳で亡くなったが、音楽好きだった君代さんが新一郎さんの詩に曲をつけ、夫婦で阿尾小学校の校歌を作ったのが思い出に残っている。

現在、長女に3人、長男に2人と5人の孫に恵まれ、一昨年にはひ孫も生まれた。「すんでのところで命拾いしながら、ここまで長生きできました。ありがたいことです。もう二度と、あんな戦争はあってはならないと思います」。