船団護衛の海防艦で南方へ

1923年(大正12)8月19日、夏目英一さん(95)は日高郡旧野口村熊野(現御坊市熊野)で農業を営む父庄三郎さん、母ミサエさんの6人兄妹の長男として誕生した。地元の尋常高等小学校、青年学校を卒業し、米国との戦争が始まるまでは家業の農業に励んでいた。

41年12月8日、日本の真珠湾攻撃で日米が開戦。快進撃を続けていた日本は42年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫し、劣勢に傾き始めた翌43年、20歳になった英一さんは徴兵検査を受けた。合格者の8割は陸軍、2割が海軍に入隊しており、英一さんは海軍への入隊が決まった。「身長が154㌢と小柄だったので海軍に行くことになったのでしょうか」と運命の分かれ道を振り返る。入隊には「国のために戦う覚悟はできていたので、いよいよきたかと思っただけ。当然の義務と考え、心が騒ぐことはなかった」という。

南方は戦局悪化の一途。43年10月、大量の護衛艦が必要となった日本海軍は、量産性を重視し、小型化、簡略化を追求した設計で、のちに英一さんが乗り込む第二号型(丁型)海防艦の建造に着手した。蒸気タービン1基2500馬力。基準排水量740㌧、全長69・5㍍、最大幅8・6㍍、最大速力17・5㌩。丁型海防艦は終戦までに63隻が竣工した。

44年8月、英一さんは広島の大竹海兵団に入団。一等水兵に進級直後、第38号海防艦の艤装員となり、神戸の川崎造船所で艦の造船に携わった。同月10日に竣工し、呉で食糧や弾薬などを積み込み、約1カ月の対潜対空訓練を受け、内地から東南アジアを担当する第一海上護衛隊に編入された。

東南アジアからの石油の海上輸送は極めて重要であり、日本はシンガポールと北九州の門司を結ぶ高速のヒ船団と、マレーシアのボルネオ島ミリと門司をマニラ経由で結ぶ低速のミ船団の2種類の石油タンカー船団を設定し、シーレーン防衛を図っていた。しかし、10月に入って米海軍は、フィリピン周辺海域に45隻もの潜水艦を展開し、上空ではレイテ島上陸の前哨戦である台湾沖航空戦が勃発。日本海軍航空部隊は大打撃を受け、貴重なレーダー装備の対潜哨戒機も多くを失い、船団護衛の協力がまともにできない状態に陥った。そんななかミ船団の航路を守るための出撃が計画された。英一さんが乗る第38号海防艦も船団護衛のため組み込まれ、15日にはシンガポール方面に向け長崎県の佐世保を出港した。

19日、佐世保沖で敵の潜水艦を発見、撃沈。23日には台湾沖で攻撃を受け、輸送船2隻に被害が出て、救助活動を行った。その後、目的地がミリからシンガポールに変更になり、11月5日、燃料補給と整備のためベトナムのサイゴンに到着。ここで連日、B29と戦闘になったが、12日にはシンガポールに無事到着した。このあと再びサイゴンに戻り、20日、補給艦「間宮」を護衛し、第38号海防艦最後の航海となるマニラに向け出港した。

 

艦が魚雷で沈没、20時間漂流

英一さんは、25㍉3連装機銃員として乗艦。背が低いため、手を伸ばしてもハンドルに届かず、飛びついて操作していたので、足は打撲のあざだらけだったが、「何かいい操法はないかと考え、訓練を重ねるうち、あざもできず、素早い操作ができるようになりました」と振り返る。ほかにも食事、見張り、通信機器当番、爆雷、陸戦隊要員、艦長従兵などの任務があった。

艦長従兵の日、林致一艦長に命じられ、ようかんとたばこを持って艦首に走った。林艦長は「この辺はカムラン湾だ。輸送船団がやられ、多くの陸海軍将兵が亡くなった。冥福を祈ろう」といい、2人でようかんとたばこを海に投げ、黙とうをささげた。艦長に「この周辺は敵の潜水艦が多い。いつやられるか分からない。覚悟はいいか」と聞かれ、「はい。いつでも艦長についていきます」と答えると、艦長は「兵は命を無駄にするものではない。本艦は私が引き受けているのだからな」とくぎを刺した。艦長室に戻ると、「わしがいないときは、ここで休んでいってもいいぞ」といってくれた。英一さんら若い兵の生活環境は劣悪で、日中は蒸し暑い艦内で座っているだけで汗の水たまりができ、スコールに会うと全身ずぶ濡れ。夜は吊床というハンモック状のベッドで寝るため、海が荒れると激しく揺れて眠れない。艦長の優しい言葉に感動し、部下思いの人柄をとても尊敬していた。

11月25日午後9時20分ごろ、マニラに向け航行していた第38号海防艦は、マニラ湾の入り口にあるコレヒドール島沖に差しかかっていた。任務を終え吊床で眠りについたばかりの英一さんは、「ドカーン!」という凄まじい轟音と衝撃で飛び起きた。エンジン音が消え、艦はあっという間に傾き、沈み始めた。敵の潜水艦の魚雷攻撃を受けたのだ。艦は真っ二つに割れ、前部は一瞬のうちに沈没。ここに乗艦していた林艦長ら85人が艦とともに沈み死亡した。

後部にいた英一さんは、艦が沈む前に海に飛び込もうとしたそのとき、頭上に取り残され揺れる軍艦旗が目に入った。「このままにしておけない」。軍艦旗を取りに素早くポールに登り、手にした旗を夢中で懐に押し入れた。そのとき、艦が大きく揺れ、海に転落。「必死に手足を動かし、もがいて、やっとの思いで海面に出ました。そこに12個ほど束ねた水筒が流れてきて、急いでそれをつかみ、浮き輪の代わりにしました」。昇り始めた月の明かりでコレヒドールの島影が見えたころ、ボートの破片につかまり漂流する仲間の一団に合流できた。そのすぐあと、わずか数カ月ではあるが造船から関わり、「この艦だけは沈まない」と信じて疑わなかった第38号海防艦が、スクリューを後ろにバシー海峡の海底深くへ静かに沈んでいった。

英一さんらは「なすすべもなく、言葉も見つからず、ただただ涙があふれ、尽忠報国、必勝を固く誓い合い、祖国の無事を祈るだけだった」。 英一さんは兵科、機関科の仲間92人と何時間も漂流を続けた。11月下旬でも南方の海は水温が高く、波も穏やかだったため、夜のうちは過ごせたが、太陽が昇ると照りつける日差しが強く、体力も気力も奪われた。互いに寄り合い、声をかけて励まし合ったが、「どうかすると自暴自棄に陥ってしまう。そのたびに自分にげきを飛ばしたり、海水で頭を冷やしたりした」。あれから70年以上が過ぎたいまも、死のふちを見た恐怖の体験を夢に見るという。

沈没から約20時間たった翌日の夕方、漂流していた全員が味方の船に救助され、英一さんは軍艦旗を持ったままマニラに入港。その後、台湾の高雄へ移送となり、英一さんは現地の警備隊に編入され、ここで終戦を迎えた。

「当時は戦争が悪ではなく、国のために死ぬのは当然と信じていた。今でも、現在の平和が将来の平和を生むのかと疑問に思うこともある。かわいい孫6人、ひ孫11人が私と同じような目にあわないためにも、平和でなくてはならない」。19日は96歳の誕生日。戦死した仲間の分もと、「元気に100歳を迎えることが目標です」と笑顔を見せた。