千人針と250人分の寄せ書き発見

「あれ、これは何やろ」
1999年(平成11)8月、母の薫(かおり)さんが88歳で亡くなったあと、離れの隠居部屋を掃除していた山﨑淳一郎さん(86)、美恵子さん(80)夫婦は、大事にしまい込まれていた布の包みを見つけて手を止めた。
開いてみると、中から出てきたものは、びっしりと大勢の人の名前が寄せ書きされた大きな日の丸、そして赤い糸で作られたたくさんの結び目が整然と並ぶ、細長い布が2本。「力」の朱文字がずらりと並んだ布もあった。

「千人針やな」
話には聞いていたが、実際に目にするのは2人とも初めてだった。

それは淳一郎さんの父で95年に89歳で他界した喜藏さんが若いころ出征して中国へ渡った時、多くの人が無事を祈ってくれた証だったのだ。

山﨑喜藏さんは1903年(明治36)11月26日、農業を営む伊ノ助さんとしげさんの長男として生まれた。

淳一郎さんには軍人時代の喜藏さんについての思い出はほぼない。喜藏さんが生前購入していた都道府県別出征者の名簿によると、喜藏さんが陸軍所属となったのは26年(大正15)、20歳の時。信太山野砲兵第四聯隊第一中隊に入隊し、古参兵からの「愛の鉄拳」に涙しつつ馬術の訓練に悪戦苦闘したという。翌年帰休除隊。故郷で薫さんと結婚し、33年(昭和8)に長男の淳一郎さんが生まれた。37年、日中戦争が勃発。喜藏さんが再び軍服を着ることとなったのは徐州陥落の興奮冷めやらぬ翌38年のことだった。信太山野砲兵第百四聯隊第六中隊に応召し、大阪から満州へ。大連から図們に到り、砲手として警備についた。その年の10月、当時は南支といった中国南部に派遣される。バイアス湾(現在は大亜湾)敵前上陸に参加、海軍との緊密な協同作戦のもと、至難の上陸を速やかに成功させたという。その後広東攻略に挑むなど2年10カ月の軍務のあと、41年に召集解除となった。

喜藏さんが帰郷した時には淳一郎さんはまだ7、8歳で、よくは覚えていない。「信太山へ母と一緒に見送りに行き、芝生の上で3人で弁当を食べたことだけは覚えています。あれが南支へ行く直前だったのですね」。

薫さんの隠居部屋で見つかった250人分の寄せ書きの日の丸や千人針は、送り主として尼崎市の親類の名があり、宛名は「南支派遣後藤支隊竹花部隊森山隊 山﨑喜藏様」となっている。終戦後は、父の後を継いで農業に従事しながら町議会議員、区長、老人クラブ会長などを務めた。美恵子さんは「賢い人で、人のお世話をするのが好きでしたね。孫たちのこともとてもかわいがってくれて、優しい人でしたよ」と振り返る。戦後、喜藏さんが当時を語ることはほとんどなく、「ずっと馬に乗っていたからお尻が痛かった」と笑い混じりで言っていたぐらい。

けが一つせずに帰ってこられたのは、「この千人針のおかげだったのかもしれませんね」と淳一郎さん、美恵子さん。その中央には、見たこともない4文字の言葉が書かれていた。

 

 

謎の4文字は命を守る言葉

美恵子さんのゲートボール仲間で熊野古道楽歩会世話人の一人、杉村邦雄さん(82)=日高町小中=は、「千人針」と寄せ書きの日の丸が発見された当時、見せてもらって「こんなきれいな状態のものは見たことがない」と感じ入った。自身も幼い頃に空襲に遭遇した経験があり、20年ほど前から子どもたちに戦争体験を語っている杉村さん。語り部の一人として歴史にも関心があり、それまでにも何度か千人針を見たことがあったが、山崎さん宅に伝わっていたものは群を抜いて状態がよかった。

戦争当時も、引き継いだ薫さんもよほど大切にしまっていたようで、80年以上経過した今も白い部分は白く美しい。ただ、2本のうち1本の千人針だけは肌身に着けていたと見えて、全体にうっすらと黒ずんでいる。中央に、「」の4文字が大きく書かれていた。手偏の漢字のようだが、どれも読めない。

関心を持って調べ始めた杉村さんに、知人から「それとまったく同じ名前の神社がある」という情報が寄せられた。その名は「サムハラ神社」。大阪市西区にある。インターネットも普及していない20年前、調べるには現地に赴くしかない。

暑い夏の日、杉村さんは電車で大阪市西区に向かった。一度は道を間違え、人に尋ねながら、苦労してたどり着いた。町中の神社という感じで、確かに「神社」と、そこには記されている。しかしあいにく宮司が留守で、いったん帰って出直すことに。2度目に訪ね、ようやく「」の意味を聴くことができた。「サムハラ」の言葉には「弾に当たらない」という意味があり、豊臣秀吉子飼いの武将で熊本城主、虎退治の逸話で知られる加藤清正が刀にその銘を彫っていたという。けが一つなく無事に除隊し、帰郷した喜藏さんを思い、「その言葉を記した千人針が、お守りとして力を発揮した」とつくづく思った。

同神社の祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の三柱で、「」は三神の総称であるという。また、「サムハラ」の語源はサンスクリット語の「サンバラ」であるともされる。
そもそも千人針とは、日露戦争(1904~06)の頃に始まった民間信仰で、その頃は「千人結び」「千人力」と呼ばれていた。のちに呼び名が千人針に統一され、千人の女性が赤い糸で結び目をつくるという形で定着した頃、千人の男性が「力」の文字を寄せ書きする「千人力」も現れた。山崎さん宅には千人針だけでなく「千人力」も伝わっていた。

終戦時に12歳だった淳一郎さん、6歳だった美恵子さんだが、戦争が終わった時は子供心に「もうこれで、B29が飛んでくるのにおびえなくてもいい」とホッとしたのを覚えている。美恵子さんは「三尾に空襲があった時、由良町門前の私の実家からも火の粉が見えました。とても怖かった」と話し、2人は「戦争は2度とあってはならない。父の命を守ってくれた千人針と寄せ書きを、大事に伝えていきたいと思います」と話す。