3年8カ月、中国戦線生き延びる

1937年(昭和12)7月7日夜、中国北京郊外の盧溝橋付近で、日本軍が夜間演習を実施中、中国兵が実弾を発射。翌未明に再び起こった射撃攻撃をきっかけに日本軍が応戦した――とされるいわゆる「盧溝橋事件」を機に勃発した日本と中国の全面戦争、日中戦争(支那事変)は、41年12月から太平洋戦争の一部となり、45年8月15日の終戦まで続いた。当時、陸軍内部には拡大派と非拡大派が存在したとされるが、「2カ月でかたがつく」といった判断のもと部隊が増派、拡大されていった。一方、中国側は元々対立していた国民党の蒋介石、中国共産党の毛沢東が手を組み、日本側に対抗。日本軍の予想を超えた長期戦となり、事態は泥沼化していった。日本から中国への派兵もどんどん増え、旧南部川村(現みなべ町)のような小さな村からも多くの兵士が召集され、戦場に送り出されていった。

みなべ町高城地区、市井川の瀧本文吉さんもその1人。今年7月23日に満100歳の誕生日を迎えた。終戦から74年、先の大戦を経験した人は全国でも年々少なくなっている。瀧本さんは年を重ねるとともに少しずつ薄れゆく記憶を振り絞るように思い出し、断片的ながら貴重な経験を語ってくれた。

1919年(大正8)7月23日、源次郎さんといしさんの次男として市井川に生まれた。農業に精を出し、20歳で徴兵検査を受け、最初に召集されたのはまだ太平洋戦争開戦前の1940年7月24日。すぐに解除され、再び召集されたのは開戦後と記憶している。北支(中国北部)や、のちには中支へ転戦。終戦までの3年8カ月、多くの戦死者を出した中国戦線を無傷で生き延びた。

出兵のとき、実家を出ていったん和歌山に集まったあと、どこから乗ったかの記憶は定かではないが、貨物船に乗って中国へ渡った。次第に遠くなる日本の山々を見たとき、もう帰ってこられないと覚悟したが、「死ぬのが怖いと思ったことはなかった。戦争にいくのが当たり前でしたから」と振り返る。

陸軍歩兵桧(ひのき)部隊に配属。到着したまちは北支(現在の河北省)の山間の盆地にある張家口(ちょうかこう)市。日中戦争が起こってからは対日協力政権の首都、1939年には蒙古聯合自治政府の首都になり、ソ連対日参戦の際はソ連とモンゴルの連合軍が侵攻して日本軍との激戦地となったとされている。瀧本さんはここで、銃剣術や重たい荷物を背負っての厳しい訓練に明け暮れた。何をするにも報告が義務づけられていて、「瀧本、トイレに行ってきます」「瀧本、トイレから戻りました」と上官にいちいち告げていたことを記憶している。冬場はマイナス10度以下になる極寒地。夜間の見張りは凍てつく寒さで、暗闇のなか、中国軍から発砲されたこともあり、銃弾が顔をかすめることもあった。ある日、一緒に見張り台に上がっていた仲間が、「こんなことしていたらあかん、山を越えて逃げる」といって出ていったまま、帰ってこなかったこともあった。

滝本さんが所属していたのは、第2線。第1線は戦闘部隊でまちを制圧するなど常に死と隣り合わせの部隊だが、第2線は制圧後のまちに入って治安を守るのが主な任務。農機具を与えたり、農業を教えることもあった。突然襲われる危険性もあるため緊張感は張りつめていたが、次第に現地住民と仲良くなっていった。住民とのコミュニケーション、信頼関係の構築、敵対する国民同士であっても、現地では互いに絆を深める人間模様があった。この現地住民との良好な関係が、厳しい中国戦線を生き延びることができた大きな要因となった。

 

現地住民と酒酌み交わし命拾い

 

米国との戦いで日本が劣勢になっていくのと同時に、中国でも多くの犠牲者が出た。日中戦争の日本側の死者は約44万人(諸説あり)ともいわれており、戦況の悪化とともに増えていった。みなべ町市井川の元教諭上村浩平氏が1995年に発行した「敗戦から50年 南部川村戦没兵士の記録」によると、1937以降、村から出征して戦死した人は347人。最も死者が多い戦地は中国の98人で、44年に26人、翌45年は38人と、戦況の悪化とともに戦死者が増えていることが顕著に表れている。

滝本さんの部隊は各地に転戦した。幸いにも奇襲を受けたり、戦闘に巻き込まれることはなかったが、ある転戦先では先に駐留していた部隊が中国軍に兵舎を焼かれ、200人近い一個中隊が全滅していた。「少し先に入営していた部隊がやられた。もし我々の部隊が早く来ていたらやられていたかもしれないと思うとぞっとしましたし、戦死した人を思うと気の毒でした」と振り返る。

常に危険と隣り合わせだが、兵舎のある敷地は比較的穏やかで、上下関係もあまり厳しくなかった。瀧本さんが窓際でハーモニカを吹いていると、上官から「おい瀧本、わしにも聴かせてくれ」といわれたこともあった。そんな日々、何より印象に残っているのは、地元の住民と良好な関係を築き、よくしてくれたことだ。

言葉の壁はあったものの、身振り手振りや漢字のやりとりでだいたい分かった。積極的にコミュニケーションを取り、物をあげたりして少しずつ仲良くなると、やがて一緒に将棋や碁を打つ仲になった。付き合いは深くなり、気軽に酒を酌み交わすこともしょっちゅう。「お、今日も飲みやん(飲んでる)のかい」と遠慮のない関係になった。そんなとき、現地住民がよくまちの中の危険な場所などを教えてくれた。「ここから出たら危ない」「日本人がいくら強くても、あそこにいってはダメだ」などと、現地民だからこそ知る情報を手に入れることができた。途中で新たに配属されてきた将校も、瀧本さんら住民と仲良くなっていた上等兵から情報を得ていたという。

「軍隊ですから、もちろん上下関係はありました。でも、実際には階級なんて何の意味もないんですよ。現地民と仲良くすることが最も大事。そうすることで何度命拾いしたかわかりません。敵国民ともこうした人間同士の付き合いがあったんです」と、むごい戦争の中にも人間ドラマがあったことを明かす。中支の揚子江近くにも転戦したが、詳しい場所は覚えていない。

終戦を迎え、無事に帰国。「戦争が終わったときは、やれやれという気持ち。生きて日本に帰れることがただただうれしかった。何千人もの部隊が全滅したという話も聞いた。よく無事で帰れたものです」 「中国での3年8カ月、とにかく生きることで精いっぱいで、中隊長も生きやなあかんと口ぐせのように言っていた。なんとか生きられたのは、第一線ではなく第二線だったこと、そして何より現地の地元民と仲良くできて情報をもらえたから。第一線の兵隊は帰ってこなかった人も多かった。私は運がよかった」。

市井川に戻ってからは農業などを営み、終戦から4年後の49年にツユ子さん(91)と結婚。4人の子どもに恵まれた。終戦から十数年後に配属されていた地域を訪ねたが、まだ壊れた家屋など当時のままの景色が残っているところもあったという。

いまは長男と3人暮らし。デイサービスを利用したり、たまに畑で草引きをすることもある元気印だ。町内で100歳以上の男性は2人だけ。戦争で外地に配属され、生きて帰ってきた人は日本全国でもほんの一握り。「戦争はしたらあかん」。厳しい戦地を経験してきた瀧本さんの短い言葉にはずっしりと重みがあった。