和歌山大空襲で遺体回収

 

1945年(昭和20)7月9日夜から翌10日未明にかけ、和歌山市はアメリカ軍による空襲で火の海に包まれた。B29100機の大編隊が襲撃した、いわゆる和歌山空襲。記録では午後10時25分に県全域に空襲警報が発令され、翌日の午前1時48分まで爆撃が続いたという。死者は1208人、行方不明216人、重傷者1560人、軽傷者3000人と甚大な人的被害を受けた。焼失家屋は3万1137戸にも及んだ。田辺市龍神村丹生ノ川、元陸軍兵士の山本修一さん(95)は当時21歳、その真っ只中にいた。

 

幹部候補生の研修として、京都府福知山にある学校へ行く1週間前の夜だった。終戦間際で戦況は厳しくなる一方。大阪など大都市の都心が次々に焦土と化していた。「アメリカは和歌山市の水軒(すいけん=西浜地区)にある大きな工場や海南市の石油工場を狙う」といううわさが出始めていた矢先のことだった。

 

山本さんは、30代半ばから40代が再召集された部隊の約30人を預かる立場だった。空襲警報が発令され、和歌山城のすぐ近くにあった防空壕へ、その兵隊たちを連れて行った。壕周辺は大混雑。山本さんらは中へ入ることができず、入り口付近で夜を過ごすことになった。上空からは「ブーン」というB29の飛来音が響き、近くに焼夷弾が落とされた。辺りは一瞬で火の海となったが、火災を消しに回る人は誰もいない。身を寄せながら空襲が収まるのを待つだけだった。やがて和歌山城にも爆弾が命中、1発で白亜の天守は大破した。耳を切り裂く爆音とともに、城の瓦や石が空から降り注ぐ。山本さんの周囲にも大きな石が次々と落ちた。直撃すれば生命に関わる大けがは間違いない。鉄のヘルメットを被ってはいたが、「カチーン、カチーン」と石がヘルメットに当たった。「敵の爆撃機が飛び交っていたのは、数時間だったと思う。朝まで続いていたら、命はなかったやろな。今晩が最期になるかも、もうアカンと思う瞬間が2回ほどあった」と振り返る。その夜は奇跡的にけがもなく切り抜け、ともに過ごした仲間たちと「『まだ生きてたか』と、握手を交わしたことを鮮明に覚えている」という。

 

夜が明け、城の堀の周りに行くと、子ども、大人、老人が点々と水面に浮かんでいた。暗闇の中を逃げる途中、熱風に耐えきれずに飛び込んだ人たちだった。山本さんの任務はその遺体を引き揚げること。長い棒の先に鉄製のくちばしがついた鳶口(とびぐち)を使い、遺体に引っ掛けて1人ずつ回収した。なかにはまだ手足がヒクヒク動いている人もいたが、山本さんらはどうすることもできなかった。

作業中、引き揚げた女性の顔を見てドキリとした。自分の母親に似ていた。「はっきりと見たわけやなかったけど、うちのおかさん(母親)に見えたんよ。その瞬間、ふと母親の顔が浮かんでね。それからもう、引き揚げた人の顔はよう見やんかった。いまでもその時のことはよう忘れん」。脳裏に浮かんだ母親はやさしさを感じるような表情ではなかったという。

 

「戦争っちゅうのはこういうこと。恐ろしいもんや。この男の人も、この女の人も無我夢中で(堀へ)飛び込んだにちがいない」。そう思いながら、目を背けて引き揚げた遺体は道に並べられ、トラックで搬送された。ある程度時間がたった遺体にはむしろが被せられ、しばらくすると、次のトラックが運んで行った。そんな作業を2日間にわたって続けた。

 

村への復員は人目を忍んで

 

 

地元の丹生ノ川尋常小学校(6年間)から東小学校の高等小学校(2年間)へ編入し、奈良県十津川の中学校(5年間)に通った。学生時代は「戦争で国のためになるような手柄を立てることが何よりも大切」と教えられた。幼い頃から軍服に勲章を付け、軍刀を持った兵隊に憧れて育った。入隊時の試験では幹部候補生の資格を得られる甲種に合格。山本さんが住んでいた日高郡旧上山路村(現田辺市龍神村)からは3人だけだった。

 

1944年(昭和19)9月、陸軍に入隊。同村東の丹生神社で大勢の人に見送られ、当時の村長から「山本修一君ら5人はただいまから戦場へ向かう。生きて帰って来るとは思うなよ」と激励を受けた。それに応え、山本さんも「もちろん、生きて帰ろうとは思いません。一命を投じて御国のために尽くします」と誓い、和歌山市へと向かった。45年7月9日の大空襲で九死に一生を得たあと、幹部候補生の研修のため、福知山の訓練所に移動。戦争が終わったのはその約1カ月後のことだった。

 

8月15日の朝、「全員、運動場に集まれ」という命令があった。ラジオから玉音放送が流れた。ノイズが多く、天皇陛下の言葉はよく聞き取れず、あとで指導員から追加の説明があったが、「負けた」という言葉は決して言わなかった。いくら問いただしても、「戦争は終わった」の繰り返しだった。子どもの頃から、軍人になって戦争に勝つことだけを教えられてきた人たち。それからは行き場を失い、一日、二日はポカンと頭が真っ白になって過ごしたという。

 

しばらくして福知山の訓練所を後にし、荷物をまとめて故郷の上山路村に帰った。田辺から虎ヶ峯を通って村に近づくにつれ、「知り合いのおじさんが戦死した」「近所の人も友達もみんな生きて帰って来なかった」という情報が耳に入ってきた。「生きて帰る」自分が情けなく感じ、知り合いに出会わないようにして帰った。

 

実家に着き、父親に「生きて帰ってきた。ただいま」と言うと、「なんちゅうことな。バカたれ! 軍人やというて大きな顔で出て行ったのに、このざまか。どの面さげて帰ってきたんな!」と罵倒された。そばで母親が「まぁ、そういわんと、はよ家に入れたげて」といって、お茶を出してくれた時は涙が止まらなかった。

 

「戦争へ行け。大きな手柄を立てて勲章をもらうような働きを必ずしろ。ここぞと思う時は命をかけて戦え。それを恐ろしがるようでは日本国民でない」と教えられてきた。女の子も看護婦として戦場へ行った。それが当時の時代背景だった。

 

「あと半年、戦争が続いてたら、戦場へ送られて、生きてることはなかったやろな。福知山の訓練所は、命と引き換えに相手をどう倒すかという訓練ばっかりだった。毎日毎日が惰性の連続。それがバカらしいことやとも思わず、これが普通なんじゃろという感覚やった。与えられた仕事をこなし、みんなバカになってしもてた。何がダメか、何が足りないか。そういう判断をする必要もなかった」と振り返る。

 

戦後は180度変わった価値観のなかでとまどいながらも、平和のありがたさをかみしめながら生きてきた。若い人たちに向けては「戦争を起こさないようにしようと思えば必ずできる。どんな理由があっても、戦争だけは絶対にしたらあかん」と、穏やかな表情にも強く意を込める。