忘れえぬ秩父宮殿下の御訪満

 

元満州国日本大使館書記官の林出賢次郎氏が満州国執政(のちに皇帝)溥儀の通訳を務め、要人との会談の内容を記録し、秘密裏に日本の外務省へ送っていた「厳秘会見録」は、1932年(昭和7)11月から38年(昭和13)3月まで5年5カ月にわたって続いた。41年(昭和16)3月、賢次郎氏が外務省を退職し、家族とともに満州を引き揚げる際、家財道具に紛れ込ませて御坊の自宅に持ち帰った副本は、終戦から40年後、賢次郎氏の死から14年後の1985年(昭和60)の初夏にその存在が明るみになった。

賢次郎氏の三男賢三氏(97年に70歳で他界)が父の死後、遺品を整理していたとき、土蔵の中で十数冊を見つけた。賢三氏が手に余って国立国会図書館憲政資料室に連絡、その憲政資料室から調査を委託された元NHKプロデューサーのノンフィクション作家中田整一氏(76)が賢三氏の公開の許可を得て複写を手に入れ、「満州国皇帝の秘録 ラストエンペラーと『厳秘会見録』の謎」(幻戯書房)という本を出した。

中田氏によると、会見録として記録された会談や謁見は496回をかぞえ、二百十数人の日本人が登場する。主な登場人物は、武藤信義、菱刈隆、南次郎、植田謙吉と4代にわたる大使も兼任した関東軍司令官。その他、軍関係では林銑十郎陸軍大臣、関東軍の板垣征四郎、土肥原賢二、東條英機、石原莞爾、河本大作ら。満州国の組閣人事とその駆け引き、溥儀の訪日、二・二六事件、日本の皇室などが話題となっている。

温厚篤実でユーモアもあり、常に完璧に通訳をこなす賢次郎氏について、溥儀はしばしば関東軍司令官との会談中、その通訳の上手さを誉めた。武藤司令官には「林出は元帥着任のはじめより、常に自分の通訳をしてくれていますが、いまだ1回も満足しなかったことはありません」といい、賢次郎氏は言葉をそのまま伝えるべきか躊躇したという。

34年(昭和9)6月6日には、溥儀の皇帝即位の祝賀のため、天皇陛下の名代として、弟宮の秩父宮雍人(やすひと)親王が満州国を訪問した。1週間の滞在期間中、通訳の大役はすべて賢次郎氏が担った。午前7時30分、大連を出発した殿下の乗る特別列車は、午後6時に首都新京へ到着した。雨上がりのホームには、出迎えた溥儀と秩父宮殿下の間に立って、にこやかに通訳を務めるタキシード姿の賢次郎氏の姿があった。秩父宮と溥儀は互いに手を挙げてあいさつし、続いて右の手袋を外すと固い握手を交わした。

この特別列車が新京駅へ着く30分前、賢次郎氏は思いがけず、展望車の秩父宮殿下に召し出された。「御前に進み、最敬礼して御顔を拝し奉れば、殿下には御機嫌殊に麗しく、微笑遊ばされ、御静かなる御声にて『通訳してください』との御言葉を拝し、只々恐縮して御下命を奉戴して引き下がり…」。一大使館員にすぎない自分への殿下の気配りに感激、動転した心境を公式記録に残している。

38年(昭和13)1月、賢次郎氏は突然、皇帝溥儀の通訳(宮内府行走)を解任された。理由は溥儀の寵愛を受ける賢次郎氏への大使館官僚、関東軍参謀らの妬みが大きかったとみられるが、賢次郎氏は東條英機参謀長が大使館に持ち込んだ人事案を受け入れ、自ら休職・帰国を願い出た。

4月、賢次郎氏は日本へ帰る船の中で、新聞の取材に応え、5年半の満州での生活を振り返り、「なんといっても感銘の深かったことは、秩父宮殿下の御訪満、それに続いての皇帝陛下の御渡日です」と述懐している。

 

妻と溥儀の冥福祈り続けた晩年

 

 

賢次郎氏は満州国宮内府行走(皇帝溥儀の通訳)として、1934年(昭和9)には天皇陛下の名代として満州を訪問した秩父宮親王の通訳を務めた。翌年4月に実現した皇帝の初の訪日では、東京駅のホームで「日満一体不可分」の固い握手を交わした天皇陛下と溥儀の間に、秩父宮殿下と並んでにこやかな笑顔で立つ賢次郎氏の姿があった。

溥儀が執政から待望の皇帝となり、賢次郎氏の肩書も「執政府行走」から「宮内府行走」に改められたこのころ、50代後半の賢次郎氏は溥儀と同様、人生の絶頂期を迎えつつあった。しかし、38年(昭和13)1月、賢次郎氏は突然、とくに理由もなく通訳の解任を告げられ、2月中に正式にその肩書が外された。4月6日に最後の拝謁を済ませ、家財道具に厳秘会見録の副本をまぎれこませ、御坊の実家へ帰った。4月28日には中華民国勤務を命じられ、今度は単身赴任で北京の日本大使館へ異動。41年(昭和16)3月には日本大使館参事官となったが、直後に依願退職、59歳で30年に及ぶ外交官生活に終止符を打った。

その後、母校である上海の東亜同文書院に招かれ学生監となり、43年(昭和18)からは宮内省式部職御用掛として、昭和天皇の中国語通訳を務めた。戦後の48年(昭和23)まで宮中に仕えたあと、御坊に戻ってからは晩年まで世界紅卍会の指導的立場を担い、青年期からの観音信仰を心の支えに日々、読書と写経の静かな生活を続け、70年(昭和45)11月16日、88歳で死去した。生涯を通して唱えた十句観音経はざっと550万回、写経は数千枚に上る。

現在、御坊市湯川町小松原の林出家は、賢次郎氏の三男賢三氏の妻ヨシ子さん(84)とヨシ子さんの長男吉生さん夫婦が暮らしている。厳秘会見録が見つかった85年(昭和60)当時、座敷の床の間には賢次郎氏が溥儀から授かった直筆の掛軸が飾られ、初代国務総理鄭孝胥(ていこうしょ)や明治の軍人、乃木希典陸軍大将から贈られた書などいくつもの家宝が掲げられていたが、2年前に家を改築した際、それらはまとめて別の場所に移した。

ヨシ子さんは日高川町玄子の出身で、賢次郎氏と初めて会ったのは戦後すぐの46年(昭和21)、県立日高高等女学校(現在の日高高校)1年生のとき。宮内省に勤務していた賢次郎氏が同校体育館で開かれた講演会の講師として招かれ、「講演の内容は忘れましたが、『私の生まれは入山で、いまの家は小松原です』というあいさつに続いて、中国での活動について話され、『支那(中国)はとにかく広いところだ』という話だったような気がします。そのときはまさか、のちに自分のお義父さんになるとは思いもしませんでした」と振り返る。

小松原で過ごした晩年の賢次郎氏は散歩と読書、観音経の写経が日課で、三度の食事は玄米のご飯と少しのおかず。家族に対しても笑顔を絶やさず、幼い孫を精いっぱいかわいがった。65年(昭和40)10月、妻のカヨさんが他界(享年70)し、その2年後に溥儀が61歳で亡くなってからは、朝晩、観音経を唱えて2人の冥福を祈った。ヨシ子さんは「お義父さんは溥儀さんのことをすごく尊敬されていました。自分より二回りも年下の溥儀さんが、最後は北京で少し気の毒な人生を送られ、自分より先に亡くなられたことに心を痛めていたようです」という。

砂漠に咲く花のように、誰にも太陽のように温かく、「ミスターサンシャイン」と呼ばれた賢次郎氏。溥儀の死から3年後、静かに波乱の生涯を閉じた。数年後、賢次郎氏を慕う元外務省の後輩やふるさと日高地方の友人、家族ら50人以上が思い出を綴り、故人を偲ぶ書籍「東方君子」が発行された。

麻雀製品製造で有名な御坊市の樹脂メーカー、大洋化学の創業者、故上西幹一氏は、賢次郎氏と同じ上海の東亜同文書院を卒業した。41年(昭和16)の大学予科2年のとき、賢次郎氏は同書院の学生監を務めていた。上西氏は賢次郎氏が亡くなる数日前、小松原の自宅を訪ねた際、病床で家族に体を起こしてもらい、自分に対し静かに合掌する賢次郎氏の姿を見て、全身がしびれるような感激の中で平伏した。このとき、上西氏は50歳。「東方君子」には、「日中共栄の礎を築こうとされた先生の生涯は、この合掌の姿に凝縮されている。もし日本の過去の対中国政治の中に、あるいは大東亜共栄圏思想の中に、この合掌の精神が貫かれていたら、おそらく東洋の運命は大きく開かれていったであろうし、幾百万の流血もなかったことだろう」と記している。(おわり)

この連載は、玉井圭、片山善男、山城一聖、柏木智次、小松陽子が担当しました。