横須賀の海軍工作学校で訓練

20歳で軍務に服する義務だった徴兵制に対し、本人の意思で入隊する志願制度。米国との戦争では多くの少年たちが大日本帝国陸軍、帝国海軍の志願兵として国防等に従事。命を落とす少年兵もたくさんいた。1928年(昭和3)1月19日生まれの田中新次さん(90)=御坊市湯川町財部=も、少年志願で若くして海軍に入隊した一人。

大日本帝国海軍は、水兵、予科練で有名な航空兵、機関兵、軍楽兵、看護兵、主計兵の6種。17歳以上が対象だが、兵種によっては15歳や16歳から志願できた。

田中さんは湯川尋常小学校を卒業後、14歳から和歌山市の住友金属で働いていた。当時は和歌山市梶取の寺に下宿。田中さんのほか、日高町阿尾のハラダマサカズさん、日高川町山野のイバラキサブロウさんと3人で生活し、歩いて住金へ通っていた。職場で先輩から「こんなとこで居てたて(こんなところにいても)あかんぞ。皆で海軍の試験受けにいかんか」と言われ、一人が「兵隊にいこら」と言い出すと皆がそんな雰囲気になり、田中さんも志願兵に申し込むことにした。

陸軍の兵隊を経験していた父が下宿先に服を届けてくれた時に志願することを話すと、「新次、お前ね、兵隊になりたかったら、士官の前でとにかく大きな声で『はい』と返事せなあかんよ」とアドバイスを受けた。その甲斐あって合格し、横須賀の海軍工作学校への入隊が決まった。和歌山から出たことがなかった田中さんは、大阪で働いていた3歳上の兄に連れられ、大阪駅に到着。大勢が集まっていて、軍用列車で横須賀へと向かった。

海軍工作学校は船匠、鍛冶、溶接、潜水作業などの工作術、築城術、設営術、航空機整備術の技官や職工を養成する学校。45年(昭和20)には本土決戦を念頭に置いた体制となり、工作学校では夏までに繰り上げ修了して国内の海兵団に配属されることが多くなった。

田中さんは全国から集まっていた大勢の少年と一緒に、教育と訓練に明け暮れる日々が始まった。真冬のある日、ひざぐらいまで雪が積もった特別寒い一日、集められた少年たちは「裸になれ」との命令でふんどし姿になり、身を切る寒さの中で2時間体操させられたことが忘れられない。射撃の訓練では、実際に弾を撃ち、肩にズシッときた衝撃と「パンパン」という音がいまでも耳に残っている。海軍といえばシゴキのイメージもあるが、訓練は厳しかったものの、田中さんは上官に棒で尻を叩かれたような記憶はない。アメリカ軍の艦載機が練兵場を狙って機銃掃射をしたという話も聞いたが、幸い遭遇した経験はなく、命の危険を感じることはなかったという。当時の楽しみといえば食べることぐらいで、海軍の食事はおいしかったことや、休みの日に訓練仲間と横浜へ食べに行ったこともあり、「海軍はよかった」という思い出の方が大きい。45年ごろ、学校を修了していよいよ配属先が決まった。「田中、お前は近畿出身やから広島へ行け」との命令で、広島の海兵団に入団することになった。

海兵団は軍港の警備防衛、新兵の教育や艦船部隊への補充などを目的に設置。広島には大竹海兵団と安浦海兵団が設置され、どこに所属していたかの記憶はあいまいだが、田中さんら幼い少年兵は赤紙で招集された大人に混じって任務につき、大勢集まった中、上官から「いよいよ決戦が始まる。みな、よく来てくれた」と激励を受けた。そして8月6日、田中さんは広島市内を見下ろす山の上にいた。

 

2発の原爆すり抜け生還

 

戦争末期の1945年(昭和20)8月6日午前8時15分、米軍は広島市へ世界で初めて原子力爆弾を実践使用。高度約600㍍で核分裂爆発し、爆心地500㍍圏内では閃光と衝撃波がほぼ同時に襲い、巨大な爆風圧が周辺の大半の建物を一瞬にして破壊した。屋外にいた人は大量の熱線と放射線を浴びて即死。屋内にいた人も倒壊の下敷きになったまま焼死した。この人類史上初めての都市への核攻撃で、当時の広島市の推定人口35万人のうち、9万人から16万6000人が被爆から2カ月~4カ月の間に死亡したとされ、原爆投下後も含めて56万人が被爆したといわれている。

田中さんの記憶によると、この日は広島のまちを見下ろせる山の上の防空壕のそばにいた。午前8時ごろ、西から東へ飛んでいく飛行機を見た。上官が「あの飛行機、なんていう名前か知っているか」と聞かれ、17歳と若かった田中さんは名前を知らず、「あれはアメリカのB29ていう戦闘機や」と教えられたという。15分ほど経ってB29が戻ってきたかと思うと、「ドカーン」という音が聞こえ、爆弾が落とされたんだと直感し、初めての経験に「こんなことあるんか」と恐怖を感じた。閃光は見えなかった。そのときはまだ原爆とは知らず、のちに耳にした。田中さんら数人には九州の佐世保へ行くよう命令が下り、汽車に乗って走っているとき、まだ広島のまちが燃えているのが見えた。

広島への原爆投下から3日後の8月9日午前11時2分、米軍は長崎市へ原爆を投下。爆心地の地表面の温度は3000~4000度、1㌔離れた場所でも約1800度に達したと推定され、4㌔離れた所でも屋外にいた人は熱傷を負うほどだった。爆心地より1㌔以内は、一般の家屋は破壊され、人々はすさまじい爆風に吹き飛ばされ、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びた。当時の長崎市の推定人口24万人のうち、約7万4000人が死亡したとされている。

長崎市への原爆投下を知らず、田中さんらは佐世保に着いて「長崎にも原爆が落とされたんや。おまん(お前)ら巻き込まれんでよかったな」といわれ、背筋がぞっとした。すぐに広島に戻るようにいわれ、広島で終戦を迎えた。玉音放送は聞いていないという。

和歌山へ帰る途中、岡山駅でトイレに立ち寄った際、居合わせた人に荷物を頼んで用を足して戻ってくると、荷物がなくなっていた。「わしの荷物は?」と聞くと、知らない男が持って行ったという。広島を発つときにもらった酒などが入っていたが、結局見つからなかった。御坊に戻ってきたとき、迎えに来てくれていた父が「死なんと、ようやったな」と喜んでくれたことははっきり覚えている。

「私なんかはこれといった経験もなく、戦争ごっこをしたようなもの。当時は兵隊に行くのが当たり前で、怖いというより、どうにでもなれという思いだった」と振り返り、「いま思えば、戦闘をせず無事家に帰ってこれたことがうれしかった。戦争したってええことなんかなんもない」。激動の時代を生き抜いた田中さんの言葉は重い。