家族のために働いた少年時代

 

子どものころ病気の父に代わって家族のために働き、防空監視哨の勤務員として徴用された日高川町江川の宮本貢さん(91)。海軍入隊後は人間魚雷の操縦訓練を受け、原爆が投下されたあとのヒロシマを目にした。「戦争はしたら絶対あかん」「もう二度と、あんな悲劇は生んではいけない」と語気を強める。

元号が昭和になったばかりの1927年(昭和2)1月25日、いまも住む丹生村(現日高川町)の江川に生まれ、8人きょうだいの長男として育った。日中戦争が始まり、江川尋常高等小学校の5年生だったころ、大工と農業をしていた父親が目の前で吐血。胃の病を患い、寝たきりになってしまった。「百姓は学校なんかに行かなくていい」。牛使いを教わり、母とともに米と麦を作った。一年の3分の1から半分ぐらいは学校を欠席。毎朝のように友達を見送り、近所の子に帳面を借りては自習した。一家の大黒柱として家族のために汗。「とにかくみじめなもんだった」と嘆く。

そんな学生時代、父親が一度、政府買い上げ米を自宅の保有分も申告してしまい、10人家族でわずか3俵しか残らなかった年があった。近所から和佐の家々を訪ね、米を分けてもらえるよう頼み込む日々。なんとか古米やもう1年前の古々米を貸してもらい、次の秋まで麦茶がゆで食いつないだ。食糧事情の悪化で、学校の運動場を耕して作ったサツマイモが、主食に代わりつつあった時代。「優しい人ばかりで助けてもらいました」と受けた恩は忘れない。

日米開戦のころに学校を卒業し、しばらく家で農業に携わっていたが、令状を受け、船着村(現日高川町)の防空監視哨に徴用された。自転車で通って1週間のうち一昼夜、山の上で米軍の飛行機を監視。敵機を発見するや、発見した時刻、方角、機種、機数、飛行する方向を本部に速報する。こちらはばれていないつもりでも敵機からは丸見えで、突如としてグラマン戦闘機が急降下。「ババババババババー」と機銃掃射に遭い、近くの壕へ命からがら飛び込んだこともある。米軍による本土空襲はしだいに激しさを増し、ごう音とともに大型の爆撃機が上空を往来。ある日、空を見上げると米軍の爆撃機を日本の戦闘機が追う姿があった。白熱の空中戦に胸を熱くした記憶がよみがえる。

そして終戦前年の44年(昭和19)、徴兵の繰り上げ検査で大日本帝国海軍に入隊。勤続35年で特務大尉の「オジキ」(祖母の弟)に呉へ引っ張ってもらった。かつて東洋一の軍港といわれた呉。「オジキは神様みたいだった。将官でも最敬礼していた」と思い出を語った。

 

特攻の訓練、ヒロシマに唖然

 

 

呉で始まった教育期間、殴られない日はなかった。連帯責任と言われ、樫の木でできたバットのようなもので尻を一発。訳も分からずまた一発やられる。「何でこんなにやられるのか」。あとで思い返すと、嫌気がさすよう仕向け、特攻隊へ志願させようとのことだった。さらに特攻で戦死すると2階級特進。親に多くの恩給を残してやれると、周りは我先に志願していったという。

宮本さんも死は覚悟の上。「どうせ死ぬなら」と志願した。特攻に使われる兵器は人間魚雷。カヌーのような乗り物に、一人掛けの座席があり、前に魚雷が搭載されている。スクリューを回し、ハンドルを操作。「死にに行く練習」を繰り返した。精神的にも追い詰められていく日々。ある日、上官に「陸戦隊に配置換えになったら鉄砲の弾を撃ち込んでやるからな」と言ったことがあった。上官に歯向かうなんて言語道断。裸にされ、海水に浸した麻のロープで腹をたたかれた。1発で皮膚がはれ上がり、2発目で流血。医務室で説教を受けた上、1週間ぐらい起きられず、「当時、やんちゃが災いしたな」と笑った。

呉の軍港では戦艦「大和」の入港、出港を目にした。大日本帝国海軍が誇る史上最大の戦艦。「初めて見たときはそりゃもう、山が来たんかと思った」と驚いた。同じ戦艦の「長門」や「陸奥」と比べても親子ほど違う大きさ。出港時には軍艦マーチが響くなか、テープが飛び、にぎやかだった。世界最大の主砲を備えた「無敵の不沈艦」の出撃。勝利を疑う余地はなかった。

45年(昭和20)4月7日、その大和が九州・坊ノ岬沖で撃沈。知らせが耳に入ったときは不思議でならず、「アメリカって強いんやなあ。こりゃ負けるかもしれん」と敗戦を意識した。その後しばらくすると、呉への攻撃が激しくなり、兵士や兵器の分散で田辺の軍港へ異動。防空壕を掘る毎日のなかで終戦を迎えた。「うちてしやまん」――一人になるまで戦い抜くと育てられたが、「やれやれ」というのが本音。「助かった。死ななくていいんだ」と安堵がもれた。

間もなくして、呉のオジキを訪ねた際、原爆が落とされた広島に寄った。一面が文字通りの焼け野原。なんとも言えない人間の腐ったようなきつい臭いが鼻をついたのを覚えている。それから50年以上がたった10年ほど前、川辺町老人クラブ連合会の視察で呉市の大和ミュージアムや広島市の平和公園を訪問。当時「広島に70年間は草木も生えないだろう」と聞いたのは間違いだった。立派なまちにびっくり。「日本人は大したもんだ」と目を丸くした。

終戦後、戦争がいやで軍服をはじめ、何もかも焼いた。「戦争がないのは幸せなこと。戦争はやめておけ」。戦争を知らない世代へメッセージを送る。