教師に怒り、強くした反骨心

午前9時で30度を超える猛暑。海のすぐそばにある家は窓がすべて開け放たれ、心地よい風が吹き抜ける。ことしもまた忘れられない8月がやってきた。米寿を迎えた登さんは最近、蝉がやかましい夏になると、その鳴き声に呼び覚まされるかのように、子どものころを思い出す。

1941年(昭和16)12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃で米国との戦端が開かれ、半年後には早くも国民生活が厳しく統制されるようになった。尋常小学校は国民学校と名前を変え、登さんが初等科から高等科に上がったころには、勤労奉仕として男手を兵隊にとられた農家の手伝いに行くことが多くなっていった。

「教科書を風呂敷に包んで学校へ行くんですが、教室に入ったら机の下の棚に風呂敷をそのまま突っ込み、農家の手伝いに出かけていました。いもや麦を植えた畑の草引き、稲刈り、稲はち…。農繁期になると毎日農作業ばかりで、教室で授業を受けることはなかったです」という。

当時、高等科の登さんの受け持ちは男性のA先生で、このA先生の露骨な差別的言動が登さんの反骨心を強くし、その後の生き方に大きな影響を与えた。「私は貧しい漁師の子どもだったんですが、その先生は漁師や農家の子どもが何かミスをすると、『おんしら(お前なんか)勉強もできんし、お前のオヤジも上の学校なんかよう行かさまい(進学させられないだろう)』と口汚く親を侮辱するんです。その一方で、親が学歴もある銀行マンだったり、いわゆる『ええとこの子』にはそんなことはいっさいいわない。もちろん、子ども同士は何も気にせず仲がよく、先生はみんなに嫌われていましたが、あのころはそれが悔しくてね。いつも歯ぎしりをかんでましたよ」。

42年(昭和17)6月のミッドウェー海戦で日本が大敗したのを機に、日米の形勢は逆転。子どもたちにも生活が厳しくなるのが肌で感じられ、学校が学校でなくなっていることに漠然とした不安があった。そんな空気を察してか、ある日、A先生が子どもたちを集めてこういった。「ええか、よう聞け。お前らはきょう限り、教科書いらんのや。学校の帰り、道のはた(端)へ捨てよ」。友達がその理由を尋ねると、「日本はこの戦争に勝つ。日本が戦争に勝ったら、世界中が日本語になるんや。ほいたら英語の本なんかいらん。ABCと鍋の尻は黒いっちゅうことだけ覚えといたらええんや」という。世界中が日本語になるというのは信じられなかったが、日本の勝利はまったく疑いがなかった。

43年(昭和18)6月、東條英機内閣が学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定し、中等学校以上の生徒・学生を軍需工場等に動員する学徒勤労動員が始まった。翌年3月、学校を卒業した登さんは勤労動員で軍需工場へ駆り出されることになり、卒業式の翌日、荊木にあった母の兄、塩崎政市さんの家に泊めてもらい、まだ夜が明けないうちから自転車にくくりつけたリヤカーに母アイ子さんと乗せられ、政市さんがこぐ自転車でガタガタと揺られながら御坊駅へ向かった。

一番列車の暁天(ぎょうてん)動員。汽車は新宮発の5両編成で、乗っているのは自分と同じ勤労動員や少年兵ばかりだった。半日がかりでようやく着いた先は、尼崎の大日金属工業。高射砲の砲弾を作る工場だった。

 

勤労動員先で学んだ生き方

 

尼崎市浜、神崎川の近くにあった大日金属工業には、西日本各地から学生が集まっていた。翌朝からさっそく、長さ約40㌢、直径約10㌢の高射砲の製作が始まった。机にはハンマーやタガネ、チスなどいろんな工具が並んでいる。漁師の子どもでも使ったことはあったが、ここではそれぞれの使い方に厳格なルールがあり、「ピー」と長い笛が鳴ればハンマー、「ピッ」と短い笛が鳴るとタガネを持ち、全員が一斉に同じ動作をしなければならない。登さんははじめのころ、誤って何度もハンマーで自分の指を叩いてしまい、監督から「山中、貴様はそんなに手を叩きたいのか」と怒鳴られた。近くの仲間は見て見ぬふりをしていたが、いつも監督が去ったあとに笑われた。

ある日、作業をしていると、近くの男がいきなり削ったばかりの砲弾を床に投げつけた。砲弾ははね返って登さんの足に当たり、肉が鋭くえぐられた。登さんはその場に倒れ、作業がストップしたが、人だかりをかき分け、隣のラインから同じ和歌山出身のカズオさんが駆けつけてくれた。「こらあかん、えらいこっちゃ」。カズオさんは登さんを担ぎ上げると、事務所まで走り、女性を呼んで消毒させ、車で病院に連れて行ってくれた。寄宿舎では鳥取出身の川島さんという班長もいて、工場で働く同郷のカズオさんと同様、何かと登さんを目にかけてくれたという。

そんな2人の先輩にかわいがられた勤労動員も1年が過ぎ、尼崎の街も空襲を受けることが多くなってきた。毎日の食事は米に混ざるコーリャンの割合が高くなり、風呂などの生活用水にも事欠くようになった。雨水をためようと宿舎の周囲に濠をめぐらせたが、たまにしか降らない雨はすぐに土にしみこんで消えた。生活が少しずつ苦しくなっていき、連日、繰り広げられるB29と日本の戦闘機の空中戦は、登さんの目にも日本の劣勢は明らかだった。

「初めのうちは、日本の戦闘機も勢いよくB29に接近して、何度も宙返りしながら、背後から銃撃していました。それがだんだん宙返りをしなくなり、しまいにはB29だけが悠々と飛んで、日本の戦闘機は見ることもなくなりました」。B29の編隊が尼崎上空に現れるたび、登さんらは壕の中へ逃げ込んだ。工場もいつ爆撃されるか分からず、軍は尼崎から西へ直線距離で30㌔ほど離れた三木に新工場を建設。そこに最新の工作機械を集中させることになり、登さんらが馬車で旋盤等を運び、トラックへ積み込む作業をしていたとき、事件が起こった。

機械と一緒に積み込もうとした箱に、布団や衣類、食べ物がぎっしり入っていた。果物、団子、ビールまであり、自分たちは食べるものも着る服もないのに、監督らはこんな贅沢なものを飲み食いしているのか。だれかが「俺たちも食べよう」といい、「それでは盗人じゃないか」と止める者もいたが、最終的には宿舎に持ち帰ってみんなで分けた。それが工場の監督だった陸軍少尉に見つかり、全員が並ばされ、1人ずつ鉄拳制裁を食らった。

そのとき、「監督、待ちたまえ。俺は許さねえぞ」と叫ぶ声が聞こえた。振り返ると、いつも温厚な川島班長が鬼の形相で監督に歩み寄っていた。「貴様、何を抜かす」。監督が殴りかかろうとした瞬間、川島班長はその場へ座り込み、「皆を殴るなら俺を殴れ、殺したければ俺を殺せ」と監督をにらみつけた。国民学校時代、A先生から理不尽に罵られた登さんら動員学徒も次々と続き、監督はその気迫に押され何もいえなくなってしまったという。

終戦を迎え、比井に戻って父と同じ漁師になり、君子さんと結婚。町を二分した原発誘致論争の際は、比井崎漁協の組合長を務め、最終的に計画を白紙に戻した。「人生、本当にいろんなことがありました」。いまは81歳の君子さんと2人暮らし。子どもや孫たちが帰ってくる盆が待ち遠しい。