妻を残し大陸で戦った夫

美浜町浜ノ瀬に住む中村サゞ枝さん(100)は1918年(大正7)、父熊吉さん、母イチさんの四女として生まれた。サゞ枝さんと姉(長女)のとしえさんは17歳以上離れていて、サゞ枝さんが物心つくころには近くに嫁ぎ、サゞ枝さんにはたみえさんという1つ年下で姉妹のように仲のいいめいがいた。次女の喜代恵さん、三女の歌子さんも戦争が始まるころには結婚して家を出ており、中村家に残ったサゞ枝さんは跡取りとして1943年(昭和18)、当時海軍に籍を置く辰男さんを婿養子に迎えた。サゞ枝さん25歳、辰男さんは27歳だった。

 

夫の旧姓は角谷。和歌山市和歌浦で生まれた。船大工をしていた関係で美浜町を訪れることも多く、サゞ枝さんとは顔見知りだったが、37年1月、20歳で呉海兵団に入団し、5月に駆逐艦綾波に乗船。2カ月後の7月には盧溝橋事件が起こり、日本は中国との戦争へと突入した。辰男さんの最初の戦闘は、上海の外港呉淞(ウースン)での敵前上陸だった。

 

呉淞上陸は熾烈を極めた。8月23日午前3時40分、名古屋の陸軍第3師団と上陸支援隊の海軍陸戦隊が先遣隊として最初の上陸を試みているが、中国軍の激しい抵抗にあい死闘となる。半日後に上陸した部隊の春見三市准尉の手記では、当時はいまだ戦闘中で桟橋を確保できておらず、上陸してすぐ死傷者が出る戦いを強いられている。9月3日に上陸した三好捷三氏の手記によると、「岸壁上一面が見わたす限り死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵隊の屍が雑然と転がっている」とあり、呉淞上陸作戦の犠牲者は1万人にも上ったという。この地獄のような光景のなか、辰男さんは初めての戦闘を生き抜いた。

 

翌年8月には第4特別陸戦隊工作隊に転属し、揚子江部隊陸戦隊として40年まで武昌や漢口攻略戦に参加した。同年10月、呉海軍兵学校に入学し、アメリカとの戦争が始まった41年の4月からは護衛艦特設駆潜艇の第八拓南丸に乗船。終戦の年の4月まで任務にあたった。サゞ枝さんと結婚したのはこの期間中になる。サゞ枝さんは束の間の休暇で白浜に旅行に行ったことや、数カ月に一度帰ってくる辰男さんを「西御坊駅に迎えに行き、顔を見てやっと、今回も無事に帰ってきてくれたと安心できた」と振り返る。辰男さんは、駆潜艇を下船後、古巣の呉海兵団に戻り内地勤務中に終戦を迎えたので、1カ月後にはサゞ枝さんの元に帰って来ることができた。辰男さんは、呉から美浜町に戻るため、焼け野原を歩いたことなどは家族に話したが、上陸作戦などの戦闘のことは何も語らなかったという。

 

銃後を守ったサゞ枝さんもまた、ただ辰男さんの帰りを待つばかりではなく、地元旧松原村(現美浜町)で死線を越えるような体験をしていた。

 

 

ヒューヒューヒューと爆弾が…

 

 

1943年(昭和18)、御坊市島にあった中越紡績和歌山工場は軍需工場の石川島航空工業㈱和歌山工場となり、同市名屋の日の出紡績御坊工場と美浜町吉原の松原工場は日本アルミニウム工業㈱、翌44年には三菱軽合金工業㈱御坊・松原工場へと転換。4月、学徒動員が閣議決定され、7月に両社の工場にも御坊商業学校(現紀央館高校)、日高高等女学校(現日高高校)の生徒が動員されている。18歳から郵便局に勤めていたサゞ枝さんも、結婚を機に退職し、アルミ工場三菱軽合金工業㈱御坊工場で経理の仕事に就き、夫の留守を守っていた。辰男さんと結婚して2年が経っていたが、子どもはまだいなかった。

 

45年、米軍は日本の本土各地に激しい空襲を行った。その無差別爆撃は8月15日の終戦当日まで続き、軍需工場があった御坊市や美浜町もその標的となった。それまでは空襲警報が鳴っても、米軍機は遥か上空を飛び、美しい飛行機雲を連ね通過していくばかりで、次第に警戒心も薄れ、息苦しい防空壕への避難も、おろそかになっていた。6月に入り空襲で被害が出たことから、サゞ枝さんが勤務していたアルミ工場の経理機能が御坊工場から松原工場に移された。22日、この日もサゞ枝さんはいつものように松原工場に出勤。そこへB29が飛来した。「エンジンの音がすぐ近くで聞こえて、外に飛び出してみたら頭上をグルグルと旋回していた。あの光景が今も忘れられません」とサゞ枝さん。「とにかく離れようと無我夢中で走っていると、ヒューヒューヒューと爆弾が落ちてくる音が聞こえたと思ったらドカーン。幸い、着弾地点から少し外れにいて命を拾いました。敵機から身を隠すように松林の中を逃げ惑いました。途中、爆発からわが子をかばって母親が子どもに覆いかぶさっているのを見ました。母親は亡くなってしまいましたが子どもは無事でした。自宅に戻ると家は無事でしたが、爆風で障子の紙は破れ、桟だけになっていました」と当時を語る。この空襲で、アルミ工場で働いていた動員学徒や地域住民ら51人が犠牲になった。終戦を迎え、恐ろしい体験をしたサゞ枝さんは、「もう逃げなくても済む、やれやれと思った」と話す。

 

夫婦そろって戦争を生き抜いたサゞ枝さんにも心を痛めることがあった。めいのたみえさんは夫と開拓団として満州に渡り暮らしていた。関東軍に勢いがあるうちは、不自由のない暮らしをしていたが、戦況が悪くなると夫も召集され、消息がわからなくなった。2人目の子どもを出産したばかりのたみえさんは現地で終戦を迎えた。敗戦国となった日本人への周囲の対応は一変。牛に家財道具を背負わせ、子どもを連れて帰国しようとしたたみえさんは、今まで雇っていた現地の使用人に銃を向けられ、荷物を全て奪われてしまった。着の身着のまま長男と赤ん坊を連れ、逃げ惑いながら、帰国のすべを探す日々を送った。食べ物もなく母乳も出ず、赤ん坊は口をパクパクさせながら息を引き取った。遺体を連れて歩くこともできず、現地で埋葬し、遺髪だけが手元に残った。たみえさん親子が帰って来られたのは終戦から2年後だった。

 

「一緒に帰国できた長男にパンをあげると、母親に一度に全部食べていいか尋ねていました。それまで少ない食料を少しずつ食べて生き延びたんですね。それを聞いてかわいそうで仕方なかった。空襲では本当に怖い思いをしました。戦争でたくさんの人が死に、残された人は悲しみ、生活も大変でした。もうあんな思いを誰にもしてほしくないです。戦争は絶対繰り返してはいけません」。終戦から73年の歳月が流れ、サゞ枝さんはことし7月1日に満100歳の誕生日を迎えた。