命からがらトラック諸島へ

 

1944年(昭和19)、南方の激戦地の一つ、トラック諸島で約1年4カ月、雨のように降り注ぐ機銃掃射の中を生き延び、無事帰国を果たしたみなべ町晩稲の故武市弘さん。2011年8月、93歳で亡くなる前、常に死と隣り合わせだった生々しい戦争体験を、弟の小川勇さん(89)=同町東本庄=に語っていた。戦争の恐ろしさを伝える貴重な体験談を、聞き取りした小川さんが静かに語った。

1920年(大正9)9月25日、父泰次郎さんと母ヨシさんの長男として生まれた。小学校のころから農学校(南部高校の前身)で軍隊教育、食糧増産で米やイモ作りに励んでいた。40年(昭和15)3月には公立青年学校教諭となった。20歳で徴兵検査を受け、開戦前の翌41年1月に陸軍に入隊。加古川の兵舎に入って幹部候補生の試験を受け、士官学校で1年間勉強。開戦後の42年3月には卒業し、兵科甲種幹部候補生となり、同年12月1日、陸軍少尉に昇格した。満州に配属となり、ソ連国境の牡丹江で関東軍高射砲隊の一員として守備の任務に就いていたが、日ソ中立条約が結ばれていたため、戦闘も混乱もなく、ハルピンに移動して新兵教育に携わっていた。官舎住まい、軍服支給、身の回りの世話をする兵隊付きで、夜はバーへ飲みに行き、「こんな楽しいことはなかった」と話していたという。

無謀の代名詞といわれるインパール作戦が開始されるなど、戦況が悪化の一途をたどっていた44年3月、転戦命令が下るとそんな生活も一変。どこへ行くのか知らされず、親しい上官に聞いて南方の島らしいことが分かった。釜山港から横須賀に到着した武市さんらは軍の資材部に行き、「南方方面に出撃する高射砲隊の武市であります。いま、私の隊で持っている弾は1000発であり、軍の規定である戦争に着任するときは8000発とありますのであと7000発下さい」と申し出たが、当時の将校は「高射砲の弾やと、そんなもの1発もないで」との返事。「戦争へ行くのに弾も持たずに戦えというのか。仕方ないので、隊員に小銃を」と食い下がると、将校が「小銃もない。何か持って行きたいんやったら、竹やりがたくさんあるから持って行け。食糧は1カ月分渡すので、あとは現地で適当に調達せよ」との命令。島にたどり着いて食糧がなくなると餓死するしかないと思い、野菜の種と魚を獲るための釣り道具を買い込んで乗船の準備を整えた。

4月上旬、護衛の軍艦も飛行機もない中、7万人の兵隊が25隻の船で出航。1隻に3000~3500人が乗り込み、船室も甲板も人でいっぱい。制海権を失っていた航海は死と隣り合わせで、出航から3日目の朝、一人の兵士が叫んだ。「あ! 魚雷、魚雷。あ、船やられる!」。指さす方向に魚雷がゆっくり、隣の船に近づくと、見る間に水煙が上がり、船は火を噴いて真っ黒な煙に包まれ、乗船の兵隊は蜘蛛の子を散らすように海に飛び込んだ。それを見ながら、武市さんの船も近くの船も全速力で四方八方へ逃げ回った。その後も潜水艦、グラマンからの機銃掃射、軍艦からの艦砲射撃など何度も攻撃を受け、ほうほうの体で20日目にサイパン島へたどり着いたのはわずか7隻。武市さんは船長にお礼を言いに行くと、「運がよかったんや。船の横っ腹を見てみなよ。大きくへこんでいるやろ。魚雷が当たったけど、不発だったんや」。太平洋の真ん中で5万人もの戦友が散った。生き残った一同で長い長い黙とうをささげたという。

サイパン島で3日間休養して、トラック諸島には2日で到着。大きな丸いサンゴ礁の岩礁のなかに、大小100ほどの島が点在していて、大きな島は直径5㌔くらい。その大きな島に春夏秋冬と名づけ、武市さんたち高射砲隊は秋島に上陸した。

 

雨のような機銃掃射

トラック諸島はラバウルやニューギニア方面への重要な軍事拠点として、日本軍がどんどん兵力を送り込んでいた。1944年(昭和19)にはアメリカをはじめ連合軍から激しい攻撃を受け、終戦までに数千人の兵士が死亡。食糧や輸送路も絶たれ、激しい攻撃と飢餓の島へと変貌していった。

常夏の島はパパイヤ、ヤシ、バナナなど果実はおいしく、海に木の実をつけて釣り糸を入れると大きな魚が釣れた。手りゅう弾を投げ入れると、魚が面白いようにプカプカ浮いて取り放題だった。地上の楽園のような秋島(直径約2×4㌔)は土地の住民が40人ぐらいの島。そこに1万人近くの兵隊が1カ月分の食糧を持って上陸。やがて食糧は底をつく、武市さんは高射砲隊150人の食糧確保が一番の心配だった。

土地の住民にサツマイモの苗を分けてもらって植え、野菜の種を蒔いた。農学校で培った経験が命をつなぐことになる。毎日のように空から落とされる爆弾や艦砲射撃を避けるための防空壕作りにも苦労した。硬い岩山を全隊員で掘りにかかったが、あまりにも硬くて発破も受け付けず、ツルハシやスコップでの作業に大変な日数がかかった。イモや野菜が出来るまで食糧をつなごうと、1カ月分を3カ月持たせるようにしたため、隊員は空腹しのぎに木の実や草、バナナの新芽まで食べ、海の魚も食べ尽くした。

3カ月ほどでイモや野菜ができ、飢えをしのぐことができたが、農業をしていない他の隊では栄養失調や餓死する兵隊が大勢いた。他の隊に野菜を盗まれることもあったという。

トラック諸島には歩兵や海兵隊ら約5万人がいたが、交戦しているのは武市さんら高射砲隊の6門だけ。敵は秋島ばかり狙って機銃掃射や爆弾を落としにきた。弘さんの二男で同居していた武市佳文さん(66)は、「艦載機の機銃掃射は本当に雨のようだった。アメリカ人は非常に勇敢で、ギリギリまで近づいてきて撃ってきたので怖かった。アメリカ以外の連合軍の飛行機は、高射砲が届かないところからちょこっと撃ってくるのでわれわれに当たることはなく、何も怖くなかった」と話していたのをはっきりと覚えている。

6門で申し合わせて集中攻撃したところ、24機を撃ち落とし、煙を噴いて逃げた1機を入れて、部隊本部に「戦果は敵機25機撃ち落とす」と報告。後日、親からの手紙の中の新聞の切り抜きに、大本営発表で「トラック島の高射砲隊は敵戦闘機125機撃ち落とす」と書かれていて、驚いて部隊本部に聞き直すと、「本部では大本営に55機撃墜と報告したのだが、さらに70機上乗せしたんやな」と話していたという。

このころになると、日本の高射砲は高度9800㍍までしか届かないと知った連合軍は、1万2000㍍から爆弾を落とすようになった。そのうち秋島を諦め、夏島の部隊本部を攻撃するようになり、秋島から見ていた武市さんによると「島の形が変わってしまうほどの無残なやられ方だった」。部隊本部長から電話があり、「お前の島の上を飛んでくるアメ公の飛行機を何で高射砲で撃たんのか」と怒鳴られ、「1万2000㍍上の敵機には弾は届きません。弾ももうわずかしかありません。弾を補給してください」といったが、「弾なんかあるか、脅しにでも撃て」と叱られた。爆弾と容赦ない機銃掃射に逃げまどいながら食糧作りに追われ、5万人の兵隊は戦う飛行機も船も銃も弾もなく、島流しにあったような形で終戦を迎えた。

終戦後の45年11月、船でトラック諸島を出航。偉そうな上官は途中で海に蹴り込まれることもあったが、終戦前には中尉となっていた武市さんは人柄と農業で隊員の飢えをしのいだこともあって、無事帰国することができた。日本の地を踏むことができたが、焼け野原となった神戸や大阪の街に腰を抜かしたという。

晩稲に帰ってからは戦争中に命をつないだ農業をなりわいとし、利子さんと結婚。5人の子どもに恵まれ、村会議員を5期務めた。小川さんは「兄は太平洋の真ん中で、魚雷にやられて次々と海に飛び込んでいった戦友の悲惨な顔が脳裏に焼きついて離れないといっていました。こんな時代があったことを若い人にも知ってもらい、二度と戦争が起こらないことを願ってやみません」と語った。