昭和19年6月のマリアナ沖海戦で大敗を喫し、続く10月のレイテ沖の海戦も敗れ、20年3月には本土防衛最後の防波堤だった硫黄島が陥落。B29による都市空襲は一気に激しさを増し、さらに戦闘機による攻撃も加わり、日本はほぼ丸裸の状態にまで追い込まれた。

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 3月24日朝、沖縄本島の南沖合に、約30隻の米艦隊が押し寄せた。ニュージャージーなど巨大戦艦が駆逐艦を従え、午前8時25分、41㌢の巨砲が一斉に火を噴いた。嵐のような艦砲射撃は夕方6時前まで9時間も続き、空からは延べ600機もの戦闘機が襲いかかった。2日後には慶良間諸島への上陸を開始。以降、沖縄の戦いは6月23日まで約3カ月間続き、日本側は軍民合わせて20万人の犠牲者が出た(諸説あり)といわれている。

 「神機将ニ動カントス。皇国の隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」。沖縄の激戦が続いていた4月6日、海軍は天一号作戦の一環として戦艦大和を旗艦とする第二艦隊(第一遊撃部隊)に沖縄方面への出撃を命じ、伊藤誠一司令長官は全艦に訓示を発した。大和以下、軽巡洋艦の矢矧(やはぎ)、駆逐艦8隻の大日本帝国海軍最後の艦隊10隻は悲壮な決意を胸に、山口県の徳山湾を出て沖縄を目指した。

 作戦方針は、揚陸可能な兵士と武器弾薬は陸上防衛力とし、残りは浮き砲台とする――。艦船を浅瀬に突っ込み座礁させ、そのまま陸上砲台として弾尽きるまで敵を叩く十死零生の特攻だった。しかし、艦隊は目的の沖縄へたどり着く前に、鹿児島県薩摩半島の西南端、坊ノ岬沖で米空母機動部隊と戦闘となり、大和、矢矧など6隻が沈没、壊滅した。大和は世界最大の46㌢主砲が一度も火を噴くことなく、右舷に命中した複数の魚雷が致命傷となり、被弾から13分後には転覆。最期は弾薬庫の誘爆と機関の水蒸気爆発によるキノコ雲を残し、345㍍の海底に沈んでいった。

 この戦いで、日本側は大和の2740人を含め3721人が戦死した。戦後、遺族は毎年、船を仕立てて洋上での慰霊を続けていた。高齢化する遺族らの安全と費用などを考え、年々、陸上での慰霊を望む声が高まるなか、戦没地点から最も近い本土である鹿児島県枕崎市の枕崎商工会議所は平成3年、4年後の戦後50年に合わせて平和祈念展望台の建設事業を決議した。

 その中心となったのは、当時の商工会議所会頭だった故岩田三千年氏。岩田氏は呉の大和の遺族会等と粘り強く交渉を続け、全国各地の篤志家の寄付、枕崎市の支援も受け、7年4月、東シナ海を望む県立火之神公園に待望の展望台が完成した。その後は毎年、商工会議所が中心となって遺族、関係者を招いて慰霊祭を行っていたが、15年からは式典の主催と展望台の維持管理を、岩田氏が会長を務める民間の展望台奉賛会が引き継いだ。

 現在の会長は岩田氏の二男三千生(みちお)氏(57)。年々、式典の参加者が少なくなり、会の運営も厳しくなるなか、4年前からは式典がなくなり、菊の花を用意して献花してもらう自主参拝形式に変わった。国民の戦争を知らない世代が8割以上となったいま、どうすれば若者に戦争の歴史に関心を持ってもらえるか。昨年11月、知人に誘われてシンガーソングライター、宮井紀行(39)のライブに出かけ、その歌声に惚れ込んだ岩田氏は翌日、思い切って電話をかけ、平和祈念展望台のイメージソング作りを依頼した。

 「あの戦争の歴史を風化させないよう、歌を通じて若い世代に発信したい」。平和祈念展望台奉賛会の岩田会長からイメージソング作りを依頼された宮井さんは一瞬、言葉に詰まった。これまでもテレビ番組や観光PR、プロサッカーチーム鹿児島ユナイテッドFCの応援歌などイメージソングは何十曲と作ってきたが、指名されたうれしさの半面、「戦争のことなど何も知らない自分に書けるのか」と不安がよぎった。

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 岩田会長の話を聞き、誠実な人柄とともに展望台への想いが伝わった。宮井さんは一つだけ条件をつけ、「ぜひ挑戦させてください」と引き受けた。その条件とは、イメージソングにありがちな作って終わりの歌ではなく、日々のライブでもしっかりとうたえる曲にすること。それは岩田会長にではなく、プロとしての自分に対する条件であり、作るからには代表曲にしようという強い気持ちの表れだった。

 和歌山県美浜町出身の宮井さんは、地元の松洋中学校を卒業後、兄と同じ和歌山工業高校に進学し、それまで経験のなかった野球部に入った。3年間でレギュラーにはなれなかったが、寮の仲間に教わってギターを覚え、当時人気の尾崎豊などをコピーしながら、我流で曲を作るようになった。

 鹿児島第一工業大学1年のとき、福井出身の倉田暁雄さんと伝説のユニット「なまず」を結成。鹿児島市の繁華街「天文館」で毎週土曜深夜にストリートライブを始めた。1回目は3人しかいなかった客が5回目には100人を超え、他のストリートミュージシャンがゆずや長渕剛をカバーするなか、オリジナルをうたうなまずの人気はうなぎのぼり。そのまま一気に上京、夢のメジャーデビューを果たした。

 しかし、東京では事務所の方針により、2人の役割が入れ替えられてしまった。メインボーカルだった宮井さんはコーラスに回り、ステージでしゃべることも許されなくなった。「いま思えば、それがなまずを売り出すために考えてくれた最善の方針だったんだと納得できますが、当時はそれがどうしても理解できなくて...」。鹿児島時代からのファンは潮が引くように離れ、結局、なまずはメジャーデビューから約3年8カ月で解散した。

 一から音楽をやり直そうと、自分を認めてもらえなかった東京を引き揚げ、平成17年4月、鹿児島で活動を再開した。これまでシングル5枚、アルバム4枚を発表し、九州各地、離島のイベント出演、全国ツアーを回りながら、毎年、ワンマンライブの会場を少しずつ大きくしてきた。2年目は客席が50人の小屋だったが、4年目には200人、6年目には600人のホールとなり、昨年は1000人のライブを成功させた。今年は10月1日、県内で2番目に大きな宝山ホール(1502席)の満員を目指す。

 東京で挫折を味わい、ソロとして原点に帰って13年目。秋の宝山ホールには並々ならぬ思いがある。「メジャーではない自分が1500人を動員できれば、その先にあるものがはっきりと見えてくるはず」。鹿児島を拠点に全国各地を駆け回り、さまざまな人と出会い、まいてきた種が確実に芽を伸ばし始めた。今回の岩田会長との出会いもまさしく、作曲の依頼は飛躍へのチャンスとなった。

 まずは戦争の歴史を知らなければ。曲作りに入る前の今年1月、岩田会長の紹介で、東京に住む第二艦隊生存者の池田武邦さん(93)に話を聞けることになった。