昭和18年、ガダルカナル島の戦いをはじめ南方でのし烈を極めた戦いに敗れ、戦況は悪化の一途をたどった。兵力増員のため国内では徴兵制の年齢がそれまでの20歳から19歳に引き下げられ、御坊市薗、上田畊(こう)さん(92)も19歳で応召。朝鮮半島で1年5カ月にわたり訓練に明け暮れた一人だ。妻のタマヱさん(89)も終戦前、地元御坊市で艦載機からの機銃掃射にさらされながらも、死線を越えた。混迷の時代を生き抜いた夫婦は72年前の記憶をたどり、それぞれの戦争体験を語った。戦争上田さん.jpg
 畊さんは大正14年12月29日、父貞藏さんと母ミツヱさんの長男(5人きょうだい)として生まれた。学校の先生になるため和歌山師範学校に通っていた19年春、御坊小学校講堂で徴兵検査を受け、第三種乙種合格。陸軍がインド北東部の都市インパール攻略を目指した、無謀の代名詞といわれるインパール作戦を始めたころだった。当時、戦争に行くのが当たり前の雰囲気だったが、「兵隊には行きたくなかった」という。すぐに召集され、配属先は大阪の第8連隊。「『また負けた第8連隊』といわれた部隊で、わたしのように体の小さい者ばかりでした。だから激戦地に行かなくて済んだ。命が助かったのは第8連隊に配属されたおかげ」。独立222部隊の一員としておんぼろの木造船に乗り込み、すし詰め状態で出航。朝鮮半島の南端、釜山(ふざん)に上陸し、広軌の蒸気機関車で現在のソウルにある龍山の兵舎に入った。
 兵力増員のため新兵や志願兵をたくさん集めたが、指導する人材が少なく、畊さんたちは教育係になるための甲種幹部候補生としての訓練が始まった。朝は6時に起床ラッパが鳴り、素早く身なりを整えて整列。行進やほふく前進、穴を掘って爆弾を抱えて待機し戦車に飛び込む訓練に明け暮れた。幹部候補生のため、階級は1カ月単位で上がっていったという。
 陸軍といえば先輩からの「しごき」が代名詞。ビンタや棒で尻をたたかれるのは当たり前で、木にしがみついてセミの鳴きまね、靴を首にかけて各部屋を回らされることもしょっちゅう。幸い畊さんは痛い目にあうことは少なかったが、陸軍の洗礼を目の当たりにしたことははっきり覚えている。
 訓練は厳しかったが、大きな混乱もなく終戦に近づいていたころ、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が満州に侵攻。畊さんの部隊も「ソ連と戦う」との指令が出て緊張は一気に高まった。部隊には現地の朝鮮人もたくさんいて、全員に鉄砲の弾を配ったが、「ソ連とやる前に、後ろから撃たれるかもしれない」、そんな恐怖にも襲われた。38度線近くまで進んだが、結局撤退命令が出て龍山に戻り、終戦を迎えた。兵器を造っていた工場などを米軍に引き渡すため現地に残り、治安を守る警察のような任務をこなした。敗戦で日本の統治下から外れた現地住民の暴動も起こり、日本の商店などは被害に遭うこともあったが、畊さんらと衝突するまでには至らなかった。米軍に引き渡しが完了した約1カ月後、仁川(じんせん)の収容所にしばらく放り込まれたあと、無事引き揚げることができた。
 アメリカのフリゲート艦で釜山を出航、舞鶴に到着した畊さんたちに出た命令は広島での残務整理。畊さんは「負けたのに命令に従うことらないわ」と広島には行かず、御坊へと戻ってきた。御坊駅では、まだいきがる兵隊がいて、「貴様、なぜ敬礼をせんのや」といっていきなりビンタされた。落ち着いてからは学校に通い直し、教諭になって教壇に立った。昭和30年、タマヱさんと結婚し、幸せな家庭を築いた。
 そのタマヱさんも戦争の恐ろしさを肌で感じた一人。塩屋町北塩屋の天田地区で生まれ育ち、終戦時は17歳。御坊のアルミ工場で働いて飛行機の部品を作っていたほか、終戦前は講師として名田小学校に勤務していた。通勤手段は当然歩きで、平日は学校近くで下宿し、週末は実家で過ごして月曜日に名田へ行く生活を送っていた。御坊の街中はB29に爆弾を落とされることもあったが、天田や名田にはそれほど攻撃はなく、緊張感の中にも少しのどかな雰囲気があった。「名田小から御坊の街中を見ると、艦載機が急降下爆撃するのが見えました。当時、急降下爆撃は日本の飛行機しかしないと聞いていたので、アメリカの飛行機もすららよって見てました」と鮮明に覚えている。そんなタマヱさんも危険にさらされることになる。
 田植えのころの月曜日の朝、天田から名田小学校へ歩いていたとき、尾の崎(現在の関電御坊発電所入り口周辺)の辺りでいきなり米艦載機が海の方から飛んできた。離れた場所に家が1軒あるだけで、隠れる場所もない。目を伏せて歩いているとなんと機銃掃射を受けた。「弾が地面にはね、土埃がバババッと1、2㍍前に上がったんです。びっくりしてなりふり構わず道沿いの溝に飛び込みました。なんせ、操縦していた外国人の顔がはっきり見えるくらい低空飛行で、あんな怖いことはありませんでした」と、72年前の恐怖はいまでも忘れられない。
 同じころ、天田の家でも恐怖が待ち受けていた。当時はB29などがよく飛来し、空襲警報がしょっちゅう鳴っていた。初めのころは防空壕に逃げていたが、そのうち慣れっこになって、逃げずにいることもよくあったという。そんなある日、天田の実家近くの山に爆弾が落ちた。このときは防空壕に避難していて無事だったが、爆風で戸は外れ、窓もすべて割れ、ザラザラした爆弾の破片が家の中に突き刺さっているのを見てゾッとした。「『ヒュー』という爆弾が落ちる独特の音がしたかと思うと、『ドカーン』とものすごい音が響きました。映画で見るような雲みたいな煙が上がった光景は目に焼き付いています」。爆撃を終え、隊列を組んで紀伊水道を飛んでいく敵機を見て、「戦争ってこんな恐ろしいものなのだと思いました。永世中立国のスイスに行きたいと思ったのを覚えています」と振り返る。
 畊さん、タマヱさんは「いまも世界ではいろんな問題がありますが、話し合いで解決してほしい。短気を起こせば取り返しがつかなくなる。一生戦争のない世の中になってほしい」。苦難の時代を乗り越えた2人は願いを込めて話す。