戦況が悪化し、兵員不足の深刻化が進む昭和19年初夏、徴兵の繰り上げ検査で大日本帝国陸軍に入隊した印南町西ノ地の山下平一さん(91)。大阪、千葉で空襲や機銃掃射に遭いながら本土防衛、警備の任に就き、「命を落とさなかったのは運が良かっただけ。命が運任せになるのはあかん。自分の生き方は自分で選び、決められる平和な世の中であってほしい」と願う。

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 大正14年9月11日に当時の切目村で、半農半漁の家庭に5人きょうだいの長男として生まれ、切目高等尋常小学校から南部農学校を卒業後、農業の指導員として役所に駐在。食糧不足を補うため米やイモの増産に取り組んでいた。19歳のときに2歳上と1歳上の人らとともに徴兵検査を受け、甲種幹部候補生に合格。当時は検査に合格すると、泣いて喜んだ時代だった。

 山下さんは山砲兵として陸軍大阪信太山中部第二十七部隊に入った。信太山には約200頭の軍馬がおり、一人1頭を世話。初めはかみついてきたりしたが、運動として一緒に走り回るうち愛着がわいてきた。和歌山市まで歩いての演習は過酷で、足の裏がまめだらけ。到着後は山の上に大砲を据えて空砲を放った。次第に空襲が激しくなると、大阪城に置かれていた師団司令部からの指示でトラックに乗って大阪市内を巡回。片づけや救助を行った。目の前には白い土塀だけが残る焼け野原が広がり、「どうにもこうにもならんな」という思いが込み上げてきた。1週間前の警備時に見た玉ねぎは焼け焦げ、道端には遺体。生きていた人は広場へ、亡くなった人は寺へ運んだ。米軍の大型爆撃機B29が2機編隊で飛んできては焼夷弾を投下。遠くからでも聞こえる轟音はいまでも忘れない。いつものように救助や片づけに回ると、防空壕まで数㍍のところで貴重品の包みを抱え、息絶えた人を何人も目にし、かわいそうでやりきれなかった。

 堺の仁徳天皇陵の警備にも就き、飛来する米軍機を迎撃。「御陵を守らなあかん」という考えは当時なら当たり前の感覚だった。壕に身を隠し、42インチの機関銃で応戦。しかし、弾を撃ってもまったく当たらない。すぐ近くでは敵機の弾がはじけて恐怖ばかりが襲ってきた。敵の艦載機、通称グラマンが去ったあとは、後ろ髪が逆立ち、文字通り身の毛もよだつ思いで、隣には機銃掃射に斃(たお)れた仲間の姿があった。

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 昭和20年5月、千葉・四街道にある学校へ転属。「いよいよ本土決戦になる」という覚悟で赴いた。学校では指揮官になるための勉強漬けの日々。自身は経験しなかったが、夜中の非常呼集は、軍装を身に着け、整列しなければならず、大変そうだった。当時の上官は華族の粟田彰常。御前会議に出席するためか留守がちだった記憶がある。そのうち、いよいよ敗戦が色濃くなり、「負けるとは大きな声で言えないが、終わらなければ仕方がない」というムード。早く帰りたいという思いもあり、ポツダム宣言受諾を知ったときは仲間とともに、やっと帰郷できると喜んだ。

 終戦から半月後には切目の実家に帰り、農業の普及員を経て農業に従事。戦後すぐの頃は遠方からイモを買い求めにくる人が多く、食べ物のありがたみを痛感した。その後、米やミカンを栽培。「とにかく忙しかった」と振り返る半生はあっという間だった。いまは近所の人たちと自宅近くの妹宅に集まって話をするのが朝の日課。メンバーは戦後生まれの人ばかりで、戦争の話をすることはない。「生まれるのがあと1年遅かったら兵隊には行っていなかったんですよね。一緒に徴兵検査を受けた人はほとんどが外地へ行って戻ってきていません」としみじみ。「戦争は弾の撃ち合い。戦争がいいとか悪いとかは分かりませんし、これからないでしょうが、子どもたちのことを思うと起きてほしくないですね」と話す。終戦の日を前にして「運よく助かって今まで生きてこられてよかった」と命のありがたさを実感。「いろいろ苦労もありましたが、やっぱり人が死ぬのが一番嫌なもんですね」と平和を願っている。