焼け野原となった西宮
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 終戦の年となった昭和20年。米軍による本土空襲は激しさを増した。軍需工場などが標的となり、大きな工場が立ち並ぶ阪神工業地帯も例外でなかった。重要工業都市西宮も5回に及ぶ空襲を受け、市街地の大部分が焼失するという壊滅的な被害を受け、多数の死傷者を出した。
 昭和12年7月7日。日中戦争が泥沼化していく契機となった「盧溝橋事件」が発生した日、日高町小中に住む杉村邦雄さん(79)は2人兄弟の兄として、兵庫県西宮市で生まれた。小学校に入学したころには連日、米軍の攻撃が行われ、工業地帯だけでなく住宅地にも爆弾や焼夷弾が無差別に投下されるようになった。「B29のプロペラの音が獣の唸り声のように聞こえた。自宅近くにも昼間に爆弾が落ち、ガラスが割れ、おなかにドカン、バリバリと響くこともありました」と振り返る。
 空襲が激しさを増す中、家族1人でも助かろうと、昭和19年に遠い親戚がいる和歌山県海南市黒江に一時疎開したが、1年ほどして「家族全員が死んで幼い子ども1人だけ残すのはかわいそう」となり、西宮に戻ることになった。
 終戦10日前の8月5日夜から6日の未明まで、西宮で5回目、最も激しい空襲が行われた。杉村さんたちは近所の人とともに、共同で掘った防空壕に隠れた。6畳ほどの大きな穴の上に板を張り、土をかぶせた壕。警報が発令されるたびに隠れていたため、この時もすぐに外に出られるだろうと危機感は薄かった。しかし、空襲は時間がたつにつれ激しくなり、壕の出入り口付近も火が上がり始めた。
 「このままでは蒸し焼きになる。外に出よう」。誰かの声とともに杉村さんらは壕を飛び出した。「外はまるで昼間のように明るかった。見上げると照明弾がゆらゆら揺れていた。米軍機からは、地上の様子が手に取るように見えていたのでしょう」。逃げる最中、自宅の屋根に数本の焼夷弾が突き刺ささった。しばらくして火が上がり、わずか数分で家全体が炎に包まれた。「思い出の家が...」と悲しむ杉村さんだったが、「ぐずぐずしてたらあかん」と大人たちに怒鳴られ、手を引かれながら駆けだした。
 空から降り注ぐ焼夷弾。爆発力は低いものの重さが2㌔以上あり、当たれば即死は免れない。そんな焼夷弾が雨のように降る中を逃げた。「途中、足元に落ちた焼夷弾から飛び散った油が足につきました。ガムのようにくっつき、熱くてやけどのようになりました」。一行は燃え盛る建物のそばを走って逃げ続けたが、ついに周囲を炎に囲まれ、絶体絶命の状況に追い込まれた。
小学校で戦争体験を語る杉村さん
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 B29が投下する無数の焼夷弾。木造の日本家屋は激しい炎を上げ、西宮の街は文字通り火の海となった。炎に囲まれ逃げ場を失った杉村さんたちは、とっさに畑にあった野井戸を見つけた。一緒に避難していた十数人が井戸に集まり、大人が水をくんで子どもたちの体にかけ続けた。「十数㍍先が燃え上がっており、何もしなければ熱くて耐えられない。水をかけてもらうと和らいだが、すぐに乾いてしまう。あのとき、私たちに水をかけ続けてくれた母親の頼もしい姿はいまも忘れません」。井戸水で熱さをしのいでいる最中、近くの建物が焼け落ち、道路が現れた。一行はその隙間に向かって走り出し、火の海を脱出。道には機銃掃射でやられた死体や、墜落した日本軍の戦闘機の中で動かなくなったパイロットなど悲惨な光景が目に入り、周囲は電柱だけが燃えながら立ち並ぶ異様な光景が広がっていた。
 杉村さんたちは親戚がいる宝塚を目指し、線路の上を歩いた。防空壕に避難した際、すぐに出られると思い、おにぎり1つしか持っていなかったため、空腹でふらふらだった。そんな中、焼け焦げた小屋にジャガイモがあるのを見つけた。煙で燻された異様な匂いだったが、空腹の杉村さんたちは涙を流して喜び、むしゃぶりついた。
 戦後、宝塚にしばらく滞在し、大阪に移った。コピーライターの仕事に就いたのち、56歳のころ、和歌山県に移り住み、現在に至る。火の海を逃げ回った日々について、「降り注ぐ焼夷弾はまさに恐怖そのもの。あの時、井戸のおかげで九死に一生を得ることができました。ジャガイモ小屋を見つけたのも命拾いしました」と振り返る。
 17、18年前から子どもたちに戦争体験を語っており、いまでも年に2、3回、日高町の小中学校を中心に戦争の悲惨さを伝えている。「戦争が始まった時は誰もこんな悲惨なことになるとは思わず、私も日本の勝利ばかり聞かされていたので、こんな怖いことになるとは考えもしていなかった。戦争はもう二度としてはいけないし、子どもたちを絶対に戦場には行かせたくない。戦争の体験を伝えることができる最後の世代として、子どもたちの感想文に励まされながら、体力が続く限り語っていきたい」と。70年以上前の惨劇が繰り返されないことを切に願っている。