「機関銃の音は忘れられない」と白井さん
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   由良町阿戸の海上自衛隊阪神基地隊由良基地分遣隊がある場所には、戦時中、大日本帝国海軍の紀伊防備隊司令部が設置されていた。紀伊水道の海面防備を担い、水上偵察機のほか第30号海防艦を配備。そのため敵の標的にもされた。終戦前の20年7月28日には、敵機によるすさまじい爆撃と機銃掃射を受けて第30号海防艦は沈没、99人の戦死者を出した。

 紀伊防備隊への攻撃は由良のみならず、周辺の地域にも影響を与えた。当時、丹生村(現在の日高川町)の和佐小学校に通っていた白井由宏さん(85)=日高川町松瀬=も、紀伊防備隊を目標としていたとみられる米軍戦闘機による機銃掃射で、生涯忘れられない恐怖の体験をした。


 白井さんは昭和6年4月9日、丹生村松瀬の農家の家に、7人きょうだいの長男として生まれた。和佐小学校在学中に日本が米英に宣戦布告し、太平洋戦争が開戦。学校の生活も大きく変わった。朝礼では、校長から南方戦線での快進撃が報告され、授業は勉強する時間がほとんどなくなり、周辺の出征した家庭に出向いては農作業などを手伝った(勤労奉仕)。また、学校は100人程度の部隊の兵舎になっており、兵隊による軍事訓練もあった。

ある夏の日、白井さんは友人らとともに松瀬の日高川で水遊びを楽しんでいた。食べる物がなく辛い時代の中も、川で泳ぐ楽しいひととき。上空からの「キーン」という耳障りな音が、穏やかな時間を一瞬で切り裂いた。空を見上げると、グラマン1機が急降下してきた。それまでも上空を飛ぶ戦闘機を見たことはあったが、急降下してくる機体は初めてで、とっさに「撃たれる」と思った子どもたちは近くの茂みに逃げ込んだ。グラマンのパイロットは「カタカタカタカタ」という音を響かせながら機銃を乱射。白井さんたちは恐怖で顔を上げることもできず、身を潜め続けた。


 その後、グラマンは飛び去って行った。「由良の軍港を攻撃する編隊のうち1機が外れて飛んできたらしいです。私らを狙ったわけでなく、どこか近くの場所を撃っていたようで、いま思えば川で遊んでいるだけの子どもを狙うとは考えられませんが、あのときの機銃の音は思い出しても恐ろしいです」と振り返る。


 南方の島々で日本軍の玉砕が続き、敗戦が濃厚となってきた昭和19年秋ごろから、本土は米軍の爆撃機による空襲が始まり、東京、名古屋、大阪、神戸、京都、横浜の6大都市をはじめ、地方の主要都市も狙われた。中心となった爆撃機は航続可能距離9000㌔、爆弾搭載量5、6㌧を誇るB29。全長30㍍、全幅43㍍の巨体が上空を飛ぶと、地上では地響きが起こった。

 白井さんが住む松瀬の上空はその飛行ルートになっていた。「塩屋の方からB29が10機くらいの編隊で飛んでくるんですが、上空からはゴーという音が鳴り、地震がきた時のようにガラス戸がビキビキと音を出して揺れ出し、本当に怖かった。通り過ぎたと思っても、また数分後に新たな編隊がやってくる。そのたびに爆弾を落とされるのではないかと心配でした」と、恐怖で眠れなかった日々を振り返る。そのころ、近くの蛇尾地内の田んぼに爆弾が落ち、地面が大きくえぐれている様子を目の当たりにしていた白井さんにとって、爆弾の威力は十分に理解できており、その分恐怖も大きかったという。

 20年8月15日、ラジオで玉音放送が流され、約3年8カ月にわたる対米戦争が終結した。学校でも先生から説明があったが、そのころの子どもたちは生きることに必死で、敗戦を悔しがったり終戦を喜んだりする姿は特に見られなかったという。終戦後、和佐小学校に駐屯していた兵隊たちは行き場を失った。「毎日、浪人のようにうろうろしていましたね。中には女性教師と結婚した人もいたそうです」と話す。学校にあった弾薬などは近くの川に廃棄した。手榴弾は爆発を利用して川魚を捕獲した。「兵隊についていったことがありますが、手榴弾を革靴の底にぶつけた後、川に投げ込みます。地面が揺れるような爆発とともに、アユやコイが浮いてきました。兵隊たちはそれをとって焼いて食べていたようです」と話す。

 小学校卒業後、みなべ町の紀南農林学校へ進み、家業の農業を継いだ。上空を飛ぶグラマンやB29に怯えていた日々を振り返り、「いま思えば燃料も食糧もないのに、大きな国相手によく戦争を仕掛けたものだと思います。戦争は絶対にすべきでありませんが、万一、攻め込まれることがあれば、立ち上がらなければいけない時もあるかもしれません」。平和を願いながらも、周辺国の状況を憂慮する気持ちもある。