ここに兵役で行っていたんですよ」と地図を指す中家さん
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 印南町印南の中家弘之さん(89)は戦争末期、2度の大空襲に遭ったあと、本土の守備兵となった終戦後、暗い過去を振り返ることなく、明るい未来を見つめ生きてきたが、近年の憲法改正をめぐる動きに関し、平和を願って忌まわしい記憶を語った。


 昭和2年4月22日に日高郡稲原村(現印南町)で農家の二男として生まれた。山口尋常小学校を卒業し、印南尋常小学校の高等科を経て、和歌山市の師範学校に進学。19年の夏から学徒動員で大阪の造船所で働いた。寮になっていた大阪市上本町の旅館に住み込み、戦車を積載する大きな揚陸艦の製造に従事。連日、溶接や穴開けの作業を行っていた。翌20年3月13日の深夜から14日未明にかけ、米軍の大型爆撃機B29が襲来。大阪大空襲だった。当時の上本町6丁目は寺町で、辺りは見ている間に火の海。逃げようにも場所がない状況のなか、生國魂神社の境内にある堀へ飛び込んだ。鳥居が燃えるほどの熱気。投下される焼夷弾がはっきり見えたのを覚えている。夜が明けた大阪のまちは見渡す限り焼け野原。その日のうちに和歌山市へ戻った。


 約1年ぶりに帰ってきた和歌山では、遠縁の家に下宿させてもらった。主人は輸送船の機関長をしており、家族は奥さんと幼い姉妹の3人だけ。一家の男手として歓迎された。日中は学校の農場で食料を生産する毎日を過ごしていたが、7月9日深夜から翌10日未明にかけ、米軍による和歌山大空襲が行われた。学校を警備する任務があったため、家で奥さんと別れて子ども1人ずつを連れて避難。姉の方を校内の防空壕に寝かせ、焼夷弾で燃える体育館の消火に当たっていたとき、和歌山城の天守閣が焼け落ちるのを目の当たりにした。何もかもが焼かれてなくなり、生きるか死ぬかの状況に感情がマヒしたようだった。朝になって下宿に戻るも、家はない。昼ごろ、奥さんと妹の方が無事に帰ってきた。何とも言えない喜びが心にあふれた。


 昭和20年7月28日、召集令状が届き、和歌山の部隊に入った。どこへ行くのか知らされないまま貨車に乗り込み、敵に気づかれないよう連日夜間に移動。2、3日後の8月上旬、着いたのは茨城県だった。貨車を降り、夜通し歩いて北浦の北、鉾田に到着。女学校の跡地を兵舎とし、民家の納屋が宿舎になっていた。そこで与えられた任務は鹿島灘の海岸防備。想定される本土決戦に備え、上陸してくる連合軍を迎え撃つ守備兵となった。砂浜にたこつぼのような、人一人が入れる大きさの穴を掘り、ふたは竹とわらや葉っぱ。敵襲の際、カニのように浜から飛び出し、爆弾を抱えて戦車に突っ込む戦術だった。後々よく考えると、上陸前の艦砲射撃や爆撃でやられてしまい、うまくいっても自爆だが、当時は天皇陛下のため、国のため、家族のために死ぬのが当たり前、何の疑いもなく戦死は本望だった。最後の一人になるまで戦うという決死の覚悟の下、リヤカーを敵戦車に見立てた訓練が続いた。


 そして終戦。先輩から聞かされたが、まさか戦争が終わるとは思いもよらず、にわかに信じられなかった。数日が経つと、男は捕虜として連れて行かれるといううわさが流れ始め、敗戦を実感。特攻のために作った砂浜の壕を埋め、残務処理に就いた。回収される武器を集積所に運搬。当時、命より大切とされた菊の紋をやすりで消す作業に頭が混乱した。汗をかいても洗濯できず、食糧がなく、皆がやせ細っていた日本。もはや人間の暮らしではなかった。そんな毎日が約1月半も続き、10月1日にようやく帰郷。復学し、23年3月、和歌山大学教育学部を卒業した。


 戦後の民主教育を受けた教師。過ぎた戦争を忘れようと、過去を思い出すものは処分した。理科、数学、技術の教諭として、川中中学校を振り出しに印南、切目、大成中や南部小に赴任。昭和61年3月に切目中校長で退職するまで38年間、「子どもたちには暗い過去より明るい未来を」との思いから、戦争体験を話すことはなかった。教師になりたてのころ、生徒を和歌山城に連れて行ったときも、焼失した天守より眼下に広がる復興の姿を見せたほど。しかし、ここ数年、憲法改正をめぐる話が聞かれるようになり、考えを変えた。


 大阪の夜空に映った焼夷弾の雨、和歌山で見た天守閣の炎上、茨城で行った特攻の訓練――機会があれば戦争の体験を語り、悲惨さを伝えることで九条の重要性を強調。「世界に誇れ、各国が見習うべき平和憲法」と語気を強める。71回目の終戦の日を前に「平和がダメだと言う人はいない一方、豊かさを求め過ぎるがゆえに、喜びや幸せを分かち合う心が薄れている」と世の中に警鐘。空襲や兵役から生き延び、命の尊さを知っている。戦地に散った人たちに長生きで報いるため健康第一の生活。「まずは100歳、この平和を守っていかなければ」と話している。