昭和18年9月30日、大本営は樺太からマリアナ諸島、カロリン諸島、ニューギニア、スマトラ島、ビルマ近海を含む広大なエリアを「絶対国防圏」と設定し、本土防衛と戦争継続のため、連合国軍の侵入からなんとしても守り抜かねばならない範囲とした。しかし、同年11月以降、連合国軍は本格反攻に転じ、太平洋上の日本軍の守りが強固なラバウルなどの島を無視し、日本本土へ迫るために重要な位置にある島を不規則に攻める「飛び石作戦」を展開。19年6月19日には絶対国防圏の一角のマリアナ諸島に迫り、サイパン島への上陸を開始した。日本の連合艦隊は空母9隻を中心とする機動部隊のほか、戦艦大和、武蔵などの前衛部隊を出撃させたが、結果は空母3隻が沈没、戦闘機は全出撃機の8割近くに上る約400機が撃墜され、米兵が「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するほど一方的な惨敗を喫した。その後もマリアナ諸島、パラオ諸島で日本軍守備隊が連合国軍との死闘の末に次々と玉砕。テニアン島が落ちてからは、日本本土が新型長距離爆撃機B29の攻撃範囲に入り、絶対国防圏は完全に崩壊した。

 「スーパー・フォートレス(空飛ぶ超要塞)」というあだ名を持つB29は昭和19年5月に正式採用され、11月からは東京など日本の都市部を空襲。同24日からはマリアナ諸島を飛び立った編隊が本土全域を標的とした攻撃を開始、27日には日高地方を初めて空襲し、日高郡矢田村の中津川、早蘇村の早藤、蛇尾(いずれも現日高川町)などに爆弾を投下した。どこも幸い死傷者はなく、小屋の瓦が飛んだり田んぼに穴が開いたりしただけで済んだ。

 20年6月7日にはB29が投下した爆弾が御坊市薗の源行寺の境内に落ち、寺の家族や近所の人ら11人が死亡。昭和62年、御坊商工高校社会研究部・地理歴史部が発行した「語り継ごう日高の空襲」によると、B29や艦載機による爆撃、機銃攻撃は終戦まで断続的に31回あり、軍民合わせて220人が犠牲となった。

 日高地方の空襲で亡くなったのは日本人だけではない。20年5月5日に日高郡上山路村(現田辺市龍神村)殿原、6月26日には日高郡寒川村(現日高川町串本)串本に米軍のB29が墜落し、それぞれ7人、2人の乗組員が犠牲となった。龍神村殿原の墜落に関してはその年の6月、終戦前にもかかわらず、村による仏式の供養が行われ、翌年からも毎年5月5日に慰霊祭が営まれていることもあり、B29が墜落した事実を知る人は多い。しかし、旧寒川村串本への墜落は、機体が墜ちた現場周辺の集落がその後の椿山ダムの建設に伴い、住民の多くが御坊市や美浜町へ分散。慰霊祭等も行われず、語り継ぐ人もいないことから、事実そのものが忘れ去られつつある。

高津尾の佐々木さんが保管しているB29搭乗員のパラシュート

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 昭和20年6月26日午前10時すぎ、日高郡寒川村(現日高川町)串本の空に1機のB29が飛んできた。当時、紀伊半島は京阪神の都市部を空襲する米軍機の飛行ルートとなっていたが、川沿いに民家と田んぼがあるだけの山間部は爆弾を投下されることもなく、寒川村の人たちは空襲警報が出ても安心して過ごしていた。しかし、この日、北から南に向かって飛んできた1機はどうも様子がおかしい。普段の編隊とはちがって高度が低すぎる。日高川支流の初湯川の上空あたりで突然、主翼の右側から炎と煙が上がり、次の瞬間、翼が胴体からちぎれ、機体はキリモミ状態になって急降下した。

 「語り継ごう 日高の空襲」によると、B29はそのまま日高川を越え、串本地内の清冷山の稜線(椿山ダムの南東)に墜落。機体から離れた翼はひらひらと空を泳ぐように舞い、初湯川の玉置タケ夫さん宅の裏手に大音響とともに落下した。幸い、村にけが人はなかったが、平和な村は一瞬のうちにパニック状態となり、人々は家に飛び込んだり橋の下に潜り込み、牛はカラスキ(農耕用の道具)をつけたまま狂ったように走り回ったという。

 墜落したB29は大阪城のそばにあったアジア最大の兵器製造工場、大阪陸軍造兵廠を攻撃するため、サイパンから出撃した第73航空団120機のうちの1機で、搭乗員11人のうち2人が死亡。あとの9人はパラシュートで脱出したが、6人はその日のうちに串本、川上村の猪谷、滝頭の3カ所で捕まり、残る3人は7月2日まで山中をさまよい、最終的に真妻村(現印南町)川又の森で身柄が確保された。

 串本の隣の初湯川に住む元美山村教育長釈野晨也さん(87)は当時、京都市内の旧制中学校に通っていた。B29が墜落した日は京都にいたが、しばらくして初湯川へ戻ったときは村中がB29の話でもちきり。「近所の人が弁当持ちでこぞって現場を見に行き、機体や積み荷が散乱する現場で宝探しでもするように、米兵の服やお菓子の缶詰めを拾っては喜んでいました。なかには機銃の銃弾を持ち帰った人もいて、それが元で取り返しのつかない暴発事故も起きました。普段は静かなんですが、あのときは村全体が妙に浮き足立っていたように思えました」。
 休暇を実家で過ごし、再び京都へ戻る前夜は御坊の内本町にあった旅館に泊まった。このとき、すぐ近くにあった御坊警察署へ、串本で捕えられたと思われる米兵が憲兵によって連行されてきた。同じ宿の客同士、「おい、いま、警察にヤンキーがきとるらしいぞ」などとささやき合っていたのも覚えているという。

 パラシュートで脱出した搭乗員9人は、初湯川の谷や猪谷川に降下した。串本に住んでいた佐々木広藏さんは近所の人たちと米兵が落ちたあたりを探しに行くと、杉の木にパラシュートが引っかかっており、ぶら下がっていた米兵を助け、駆けつけてきた憲兵に引き渡した。このとき、佐々木さんらは米兵の身柄とともに、回収したパラシュートと拳銃、剣を憲兵に差し出したが、パラシュートは必要ないと判断され、佐々木さんが家に持ち帰った。当時、佐々木さんが住んでいた家はダム建設でなくなり、佐々木さんも鬼籍に入られたが、シルクのパラシュートはいまも破れたまま、佐々木さんのおいに当たる元紀央館高校教諭の佐々木幸生さん(62)=日高川町高津尾=が保管している。