昨年末、戦争の話をまとめた本を出版した。日高地方を中心に、戦争を体験された人らを訪ねて話を聞きながら、いまとはまるで違う国民の生活、教育、価値観に戸惑うことも少なくなかった。
 表紙は戦争末期、関東地方で撮影された婦人部隊の集合写真。御坊市内の男性にお借りした。きたるべき米軍の上陸、本土決戦に備え、竹やりで米兵に対抗するというゲリラ部隊の写真だが、若い人にはおとぎ話のようなあの戦争を象徴する一枚である。
 「一億玉砕」が叫ばれていた戦争末期の話として、先日、美浜町の入山と御坊市の亀山に残る 「壕」 やトーチカを取材した。トーチカとは、機関銃などを構える小窓以外をコンクリートで固めた防御施設。入山や亀山の場合、山の斜面に横穴を掘り、30~50㌢四方の銃眼の周囲が分厚いコンクリートで覆われている。
 ほか、両方の山とも10カ所ほどの壕(横穴)が確認でき、亀山には壕のそばに塹壕らしき溝も残っている。壕は個人の「防空壕」とは違うと思われ、兵士の退避場所か弾薬庫にするつもりだったのか、あるいはトーチカを造る途中に終戦を迎え、穴だけが残ったか。
 亀山のトーチカは煙樹ケ浜や塩屋へ上陸後、熊野街道(国道42号)を北上する米軍を、入山も同様、上陸後に移動する米軍を後方から狙う作戦だったと思われるが、敵までの距離は亀山が最短でも約200㍍、入山は1㌔ほどもある。実際に戦闘となれば、どれほど効果があったのか。
 日高地方の山で軍の壕が掘られていたころ、沖縄では米軍が火炎放射器で壕を焼き払い、ガマ(自然の洞穴)に逃げ込んだ住民が追い詰められ、集団で自決した。「終戦がもっと遅れていたなら...」。汗とは別に、冷たいものが背筋を走った。  (静)