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 旧満州北部、ハルピンの兵舎(元は日本人の高等女学校)のグラウンドで玉音放送を聞いた翌日、平兵衛さんは隊長から「飛行場でソ連軍の上官を出迎え、ホテルへ案内せよ」と命じられ、仲間とともに5台の車で飛行場へと向かった。到着すると、いるはずの日本兵は1人もおらず、あるはずの日本の飛行機も見当たらない。「そこはきのうまで日本の飛行場だったんですよ。日本兵はソ連が攻め込んできたとき、全員が飛行機で逃げてたんです。『飛行隊はけっこなもんやな』とあきれてしまいました」。 
 現場で待てど暮らせど、ソ連軍の輸送機は飛んでこない。ロシア語を話せる者もいないため、所在なく、そのまま相手の出方をうかがっていると、ソ連側の通訳が近づいてきた。緊張して身がまえる平兵衛さんらに、「ソ連兵は、あなたたちのサーベルを怖がっています」という。「なんじゃそら...」。力が抜けた平兵衛さんらは安堵し、全員が腰につけていた軍刀を渡した。武装解除はあっさり終わり、結局、このときは軍刀を渡しただけで、ソ連側幹部をホテルへ送ることもなく兵舎に戻った。
 その後、満州北部に残っていた日本人は、ハルピンから東へ約280㌔の牡丹江(ぼたんこう)への移動を命じられ、軍人、軍属、開拓団の民間人も含め、真夏の炎天下を黙々と歩いた。途中、監視のソ連兵は日本人の時計、財布、万年筆など、欲しいものを見つければすぐさま奪い取った。平兵衛さんも日よけにかぶっていた新品の軍服を下士官クラスの兵士によこせといわれ、抵抗して引っ張り合いになったが、最後は胸に銃を突き付けられて手放した。
 日・韓・満・蒙・漢の「五族協和」をスローガンに建国された満州だったが、実態は社会のどの分野でも日本人がエリートだった。それが日本の敗戦で一転、不満を抱えていた中国人(漢民族)らは、連行される日本人に石を投げつけた。その一方で、平兵衛さんは現地の中国人に幼いわが子を預ける日本人の母親の姿も見た。のちに日本で「中国残留孤児」と呼ばれる人たち。「私が見たときには、中国人は頼まれて子どもを引き受けるというより、自分たちから積極的に日本人の子ども(とくに男の子)を預かろうと、多くの中国人が道沿いに並んでアピールしていました」と振り返る。
 到着した広大な広場には無数のテントが設営され、続々と集まってくる日本人を捕虜にするかしないかの「選別」が行われていた。軍人だった平兵衛さんは1週間待たされたあと、選別の結果、「559作業大隊」に入れられ、服には「559」の名札が縫い付けられた。のちに分かったことだが、大隊は1000人単位で、平兵衛さんの「559」は55万9001人目からの1000人という意味。現在、満州からの抑留者数は65万人が定説となっているが、平兵衛さんは「私たちのあとにもかなりの人が残っていましたし、もっと多いはず」という。
 10人ずつがジープに乗せられ、行き先も分からぬまま走り続け、ようやく停車したときは真夜中。暗くて何も見えないが、海の近くなのか、小さな波音が確かに聞こえた。夜が明け始めると、目の前には海が広がり、遠くには何隻もの軍艦が並んでいた。「やっぱり海や。間違いない」「あの軍艦に乗って日本へ帰れるぞ」。連れてこられた仲間たちと抱き合って喜んだ。
 平兵衛さんらは施設の中で朝食を与えられ、空が明るくなって外へ出た瞬間、全員が一様にわが目を疑った。海の向こうの軍艦が、薄くなって消えかけているではないか。「そんなバカな...」。騒然とする日本人を見かね、ソ連の通訳が「あれは海ではなく、興凱湖(こうがいこ)という湖で、軍艦に見えるのは蜃気楼だ」と説明した。「シンキローってなんや?」。日本人はみな、初めて聞く言葉だった。興凱湖とは、ウラジオストクの北約150㌔にある中ロ国境にまたがる湖で、ロシア側では「ハンカ湖」と呼ばれている。軍艦が完全に消えたあと、うなだれる平兵衛さんらは湖の北約380㌔のハバロフスクから、さらに北西へ約600㌔離れた国境沿いの街、ブラゴヴェシチェンスク郊外の収容所へ連行された。
「シベリアの収容所では食べることしか考えられませんでした」と古居さん
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 強制収容所は一般的に周囲を塀で囲まれた丸太小屋というイメージがあるが、実際には地下の洞窟内で生活する施設が多い。平兵衛さんらの収容所は中国北の国境の街、ブラゴベシチェンスク郊外の人里離れた荒野にあった。冬になれば気温はマイナス40度に達する日もあったが、洞窟の収容所内は温度が一定しているため、夏は涼しく、冬は暖かい。作業は農業で野菜の栽培を中心に、冬場は夏に刈った草を牛や馬の飼料にするため、倉庫の機械で30㌔の束にする圧縮作業などを行った。
 収容所には当然、風呂もシャワーもなく、劣悪な衛生面を除けばなんとか耐えられたが、食事の貧しさが何よりも辛かった。夕食は粟や小豆、コーリャン(高粱)などの雑穀を飯盒の内ぶた1杯分だけ与えられ、それをスープに入れて炊き、班の4人で分けて食べた。通常、キャンプなどでは4合炊きの飯盒は内ぶた2杯分の米で4合になるが、収容所では飯盒に半分の量を4人で食べる計算。「ふたに1杯分ならまだいい方で、2週間ほどで変わる雑穀の中でも粟は一番、炊き上がると膨らむんですが、コーリャンや小豆はかたくてまずく、何日も続くとげっそりしました」。
 ある日、空腹に耐えかねた平兵衛さんらは作業の途中、監視兵の目を盗んでジャガイモの芽をちぎってズボンに隠し、収容所に持ち帰った。ジャガイモの芽に毒があるのは知っていたが、よく焼けば問題がないことも分かっていた。食事前に焼く準備をしていると
、なにやら入り口の方が騒がしい。通訳に聞くと、監視兵が「イモの芽を盗んだ奴がいると怒っている」という。それを聞いた平兵衛さんらは「見つかる前に食べてしまえ」と、慌てて芽を生のまま食べてしまった。結果、1時間ほどすると全員が強烈な腹痛やめまいに襲われ、平兵衛さんも苦しさのあまり収容所を飛び出し、転げまわったあげく、意識を失ったという。
 収容所の所長は定期的に異動があり、15の共和国からなる旧ソ連では、いろんな国の所長が着任した。毎日朝晩、外で行われる点呼も冬場は空腹より辛かったが、寒さがあまりに厳しい日は捕虜の代表が所長にかけあい、夜の点呼を免除されることもあった。逆に捕虜が点呼免除のためについたウソがバレたときは、怒った所長が全員を外へ集合させ、そのまま1時間以上も立たされた。
 ウクライナ人の所長は日本人の捕虜に対してやさしく、何度も点呼を免除してくれた。任期を終えて異動する前日の点呼では、「私は君たちを最後までみてあげたかったが、残念ながら次の任地へ行かねばならない。収容所の生活はとても辛いだろうが、ここにいる君たちは1人残らず、全員が元気で、すばらしい祖国日本へ帰ってほしい」と述べた。その温情あふれる所長の言葉に、日本人は全員が涙を流した。70年後のいま、平兵衛さんはクリミア半島問題で「ウクライナ」という言葉を聞くたび、「ウクライナを応援したくなるんです」という。
 不毛地帯の抑留生活も3年半が過ぎた昭和24年のはじめ、平兵衛さんはようやく収容所から解放された。この間、音信不通の日本の家族は、平兵衛さんが生きているのかどうかも分からず、村のほとんどの人は「もう死んでる」と思っていた。ナホトカから乗り込んだ引揚船「遠州丸」にはソ連とアメリカの兵隊が乗っていて、タオルと石けん、歯ブラシ、歯磨きをくれた。舞鶴の港へ着き、桟橋を渡って岸壁についたとき、看護婦が駆け寄ってきて体を支えてくれた。
 汽車で和歌山へ戻る途中、車窓から「絶対に生きて帰れない」と思っていた祖国の景色を眺めながら、それが現実ではないような気がして、乗り合わせた客に思わず「わしはいま、夢を見てるんかな」と尋ね、「おい、しっかりせぇ、夢と違うぞ」と顔をたたかれた。稲原駅へ着いたときは、両親と近所の人が迎えに来てくれていた。5年半前、出征するときは「お国のために」と、村を挙げて盛大に見送ってくれたのに...。家まで15㌔ほどの夜道を4人で歩いて帰った。数日後、知り合いの役場の人に出会っても、「おまえ、まだ生きてたんか」と笑われただけで、「ご苦労さん」のひとこともなかった。日本人にとって、戦争はすっかり過去の話になっていた。
 平兵衛さんは御坊で再びタクシードライバーとなり、57歳の定年まで勤め上げた。戦争中、そして戦後の抑留中も夫の生還を信じ、幼い子ども2人を抱えて家を守った妻オイチさんは、13年前、83歳で他界。平兵衛さんはことし2月、満100歳の誕生日を迎えた。終戦から70年の時間が流れ、高串の実家は切目川ダムの底に沈み、自分に地獄の苦しみを与えたソ連という国は崩壊した。「ロシア人に対しては何の恨みもありません。日本は(戦争に)負けた国ですから、何をいっても仕方ありません」。いまは週3回のデイサービスが楽しみだと笑う。
         (おわり)
 この連載は玉井圭、片山善男、小森昌宏、山城一聖が担当しました。