昭和19年7月、満州で撮影(前列椅子の左が隊長、右が班長で、矢印が古居さん)
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 大正4年2月、日高郡真妻村(現印南町)高串の農家に生まれた古居平兵衛さん(100)は、13歳で上洞(かぼら)尋常高等小学校を卒業すると、他の村の子と同じように御坊の乾物卸問屋へ奉公に行き、16歳で大阪の池田にあった薬屋に転職した。自転車で顧客の注文をとりに回り、その足で大阪市内の薬問屋が並ぶ道修町(どしょうまち)へ仕入れに走り、翌朝はまた配達と注文聞きに回る日々。「小さいころから車を運転したかった」。街でフォードやシボレーを見るたびにその思いが強くなり、御坊に戻って中町にガレージがあったバス会社の御坊自動車(現御坊南海バス)に就職。1年間、定期バスの車掌をしたあと運転免許を取り、21歳で念願のバスの運転手となった。
 昭和16年末の対米開戦時は和歌山市内でタクシーの運転手をしていたが、戦争が長引くにつれ、国鉄東和歌山駅(現JR和歌山駅)には戦死した兵士の遺骨が届くようになった。平兵衛さんもその遺族を送り迎えすることが多くなり、やがて燃料のガソリンも配給量が少なくなり、仕事に支障をきたし始めた。「最後は一日に10㍑しかもらえなくてね。60㌔ぐらいまで加速したら、エンジンを切って惰性で走るんです。で、止まる寸前にまたエンジンをかけて加速するんですが、お客さんもそんなタクシーなんか乗りたくないですよね」。会社は営業車両を木炭車に切り替えたが、もはやタクシー会社が経営を続けられる社会情勢ではなかった。
 17年、同じ真妻村出身のオイチさんと結婚。タクシー会社を辞めて実家の農業を手伝っていた18年7月のある日、仕事帰りの道すがら、オイチさんが息せき切って駆け寄ってきた。「赤紙が届いた...」。召集は3つ上の兄よりも早く、3人の兄弟で最初。27歳で一男一女の父でもあった平兵衛さんは、「自分は召集されることはない」と思い込んでいただけに少なからずショックはあったが、それ以上に、赤紙を受け取った場所が村の墓地の前だったことにイヤな胸騒ぎを覚えた。日の丸の小旗を持った近所の人や村役場の人たちに見送られ、父市松さん、母春江さんと3人で稲原駅から汽車に乗り、高槻の陸軍工兵隊へ出頭した。
 到着するや、着ていた服やズボンはすべて両親に渡し、かわりに支給された軍服に着替えさせられた。教育も訓練もないまま、翌日の夕方には名も知らぬ仲間とともに駅へ行けと命じられた。「わしら、これからどこへ行くんやろな?」。ホームでささやき合う新兵たちの不安を知ってか知らずか、地元のおばちゃんが話しかけてきた。「あんたら満州(現在の中国東北部)へ行くんやな。向こうは寒いんやから、風邪ひかんようにせなあかんで」。上官からは行き先も任務も何も聞かされていない。「おい、わしら満州へ行くんか」「いや、知らんで」。首をかしげながら乗り込んだ汽車は下関に到着し、船に乗り換え朝鮮の釜山を経て再び汽車に乗ると、おばちゃんにいわれた通り、満州北部のチチハルの駅で下ろされた。
 現地で編成、配属されたのは、チチハル南部のフラルキという村にあった鉄舟(てっしゅう)部隊。橋のない川に鉄の船を並べ、その上に鉄板を敷いて仮設の橋をつくり、戦車等を渡すことが本来の主な任務だった。しかし、当時は鉄はすべて南方の戦線に送られ、作戦や訓練どころか、船を造ることさえできない状態だった。仕方なく、平兵衛さんが「朝鮮との国境に近かった」と記憶する「セイロー」という村に移動した。
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 チチハル南部のフラルキから移動した先の「セイロー」という村はどこにあったのか。現在の地図を見ても分からず、従軍記録がない平兵衛さんにとって、手がかりは「恐ろしく寒いところ」という記憶しかないが、「おそらく北朝鮮との国境近くだったはず」という。
 到着早々、小便をするため兵舎から出ようとしたとき、ドアの横に置かれている拳銃が目に止まった。先着の兵士に「しょんべんに行くときは必ず拳銃を持っていけ」といわれ、理由を聞くと、虎に襲われるからだという。虎は人の小便のにおいが好きで、山で用を足していると寄ってくるらしく、半信半疑ながら、平兵衛さんも念のためにいつも銃を持って小便をした。当時、満州とソ連の国境付近にはシベリアトラが生息、満州にはなく、南の朝鮮半島北部の山にはいるといわれていた。結局、平兵衛さんは一度も虎を見なかったが、犬にソリを引かせて山に入る虎狩りの中国人猟師を見かけたこともあり、この虎の話と移動した距離などから、セイローは朝鮮半島最北の国境に近かったのではと推測する。
 しかし、セイローはもっと北にあったのか。冬になれば気温はマイナス50度に達する日もあった。平兵衛さんらは陣地構築演習のための木材調達を命じられ、▽山の木を切る▽山から木を運び出す▽トラックに木を積んで駅まで運ぶ▽駅で木を貨車に積みかえる――の4班に分けられ、運転はお手の物の平兵衛さんは、切り出された木をトラックに積み、駅まで運ぶ班に入れられた。
 毎朝、7時の点呼には、トラックをエンジンのかかった状態にしておかねばならない。しかし、血も凍るような極寒のセイローでは、トラックのバッテリー液やエンジンオイルが凍ってしまう。トラック担当の平兵衛さんは、毎日、バッテリーを外して兵舎に持ち込み、寝る前に毛布にくるんでベッドの下へ入れた。エンジンはオイルや水分が凍結することもあり、夜明け前に起きて外のトラックの下に潜り込み、炭をいこらせた七輪を手にオイルパンを下から熱し、エンジンを暖めてかかる状態にした。「外は10分もすればまつ毛が凍ってまばたきができなくなり、次に口ひげや鼻毛も凍りました。その寒さも強烈でしたが、カンテキ(七輪)で
オイルパンを暖めるとは、いま思えばムチャクチャなことをしてました。よくガソリンに引火しなかったもんです」と笑う。
 その後、昭和20年の夏にはチチハルの北、ソ連との国境付近に移動し、トラックを貨車に積み込む任務にあたった。このころ、米軍は沖縄に上陸し、本土はB29の編隊が無差別爆撃で都市を次々と焼き尽くしていた。8月6日の広島への原爆投下で日本の敗戦は決定づけられ、政府がポツダム宣言を受け入れるかどうか混乱しているなか、ソ連は日本との中立条約を一方的に破棄し、対日参戦を急いでいた。
 ソ連は8日に対日宣戦を布告し、満州では9日未明から侵攻を開始した。敵ではなかったソ連との国境は一気に戦闘の最前線となったが、満州守備の主力だった精鋭の関東軍は南方へと振り向けられ、兵力がないところへやってきた工兵隊の平兵衛さんらは張り子の虎も同然。銃剣を手にした赤鬼たちがいきなり押し寄せ、訳が分からぬまま必死に応戦した。「はっきりした日付は覚えていませんが、あれはたしか終戦の1週間ほど前でした。ミグ戦闘機が私たちに向かって機銃掃射を浴びせてきました」。
 日本は勝っているのか負けているのか、なぜソ連が満州に攻め込んでくるのか。情報がいっさい入ってこないなか、なんとか生き延び、命からがら逃げ戻ったハルピンの兵舎(元は日本人の高等女学校)で終戦を迎えた。全員がグラウンドに集められ、短波ラジオの東亜放送(現在のNHKワールド・ラジオ日本)を通じて生中継された天皇陛下の終戦の詔書(玉音放送)を聞いた。日本が負けたことに落胆もあったが、「とにかくこれで日本へ帰れる」という安堵の方が大きかった。しかし、そう思ったのもつかのま、平兵衛さんら軍人は捕虜となり、強制収容所に連行された。いわゆる「シベリア抑留」、地獄の日々の始まりだった。