満州へ渡った当時のキヨ子さんの家族(右はキタロウさん、左が長女ルリ子さん)
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 昭和7年3月1日、日本は前年の満州事変によって占領した中国東北部(現在の黒竜江省・吉林省・遼寧省・内モンゴル自治区北東部)に、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政とする満州国を建国した。以降、20年の戦争終結まで、内モンゴル地区を含め約27万人が日本から満蒙開拓団として送り込まれた。
 御坊市湯川町富安の角梅子さん(84)の叔母、故木下キヨ子さんも満州に渡った1人だった。キヨ子さんの夫キタロウさんが軍人として満州へ出兵。しばらくして「土地が広くて生活しやすい」などと、キヨ子さんにも声がかかり、嫌々ながらもまだ小さかった長女ルリ子さんを連れて満州に行くことになった。満州では現在の中国の瀋陽市に当たる奉天市で生活を始めるようになった。
 日本の敗戦が濃厚となってきた19年、満州国内にあった製鋼所などもB29の空襲の標的となった。20年2月、ソ連、アメリカ、イギリスの3国首脳はヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ編入することを決めた。同年8月、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦を布告。満州国への侵攻を開始した。満洲を防衛する日本の関東軍は17年以降増強を中止、南方戦線への動員もあって十分な戦力を持たず、ソ連の侵攻に対抗できなかった。関東軍はいち早く撤退を開始し、満蒙開拓移民団員ら日本人居留民は侵攻の犠牲となった。
 新たに2人の子どもを授かるなど、満州の生活になじもうとしていたキヨ子さん夫婦にも、危険が及んでいた。侵攻してくるのはソ連兵だけでなく、開拓により土地を奪われた中国人も多く、キヨ子さんらは中国兵に街を追われた。兵士として任務についていたキタロウさんとは離ればなれになっており、子ども3人を連れて逃げることができないキヨ子さんは、親切にしてもらった中国人にルリ子さんを預け、あとの2人を連れて逃げた。途中、大きな川を渡る必要があり、幼い2人の子どもを連れて逃げることはできず、泣く泣く2人を置いて1人で川を渡った。その後、2人の子の消息は分かっていない。
 終戦後、キタロウさんは無事、日本に戻ってきたが、キヨ子さんは戻ることがなかった。引き揚げ中に亡くなったと思っていた角さんと母木下チヨノさんのもとに、十数年後、一通の手紙が届いた。「まさか...」。それは、中国で新しい生活を始めていたキヨ子さんからだった。
叔母一家の帰国に苦労したことを振り返る角さん
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 昭和20年8月、ソ連軍の満州侵攻を予測していた関東軍は、民間人からトラックや車を徴用、即座に撤退を開始した。遅れて侵攻の事実を知った民間人は移動手段がなく、真夏の炎天下、歩いて避難しなければならなかった。混乱の中で命を落とす者、日本人収容所に収容される者、収容所の中で命を落とす者もいれば、子どもは中国人の養子となり、女性の中には現地で結婚して生き延びる者もいた。
 角さんと母木下チヨノさんに届いたキヨ子さんの手紙には、避難の途中、助けてくれた中国人と結婚し、3人の子どもを授かっていることなどが記されていた。チヨノさんは、亡くなったと思っていた妹からの手紙に喜んだ。同時に、満州へ行くのを嫌がっていたキヨ子さんを思い出し、すぐに日本に帰ってこられるよう、角さんに行動を求めた。ここから、キヨ子さんらの帰国をめぐる角さんの長い闘いが始まった。
 帰国はスムーズにはいかなかった。日本政府が中国残留邦人の帰国について積極的でなかったうえ、終戦後の混乱と中国共産党政権との間に国交がなかったことなどが原因だった。それでも角さんは母の願いをかなえるために、各地で中国からの帰国の情報を集め、日本へ帰ってきた人がいると聞けば東京だろうが駆け付け、手続きなどを聞いた。
 角さんが日本で奔走するなか、中国のキヨ子さんには運命の出会いがあった。中国で結婚したキヨ子さんは病院で看護師として働いていた。そこに患者として現れたのが終戦の混乱の中、中国人家族に預けたルリ子さんだった。年齢は20代くらいになっており、幼いころ別れたルリ子さんはキヨ子さんに気づいていなかったが、何年たとうと親が子の顔を忘れることはない。キヨ子さんが声をかけ、奇跡のような再会を果たした。
 ルリ子さんとの再会の連絡を受けた角さんは、キヨ子さんとルリ子さん、現地で結婚後にキヨ子さんが生んだ3人の子どもも一緒に帰国できるよう手続きを進めた。それから数十年、ようやく帰国の目途が立ったころ、もともと体が弱かったキヨ子さんは病に倒れ、祖国への帰還を目前にして亡くなった。しばらくしてルリ子さんの異父弟がキヨ子さんのお骨を持って来日。その後、2人の異父妹、最後にルリ子さんが帰国し、角さんと角さんの母チヨノさんの長年の闘いは終わった。帰国したキヨ子さんの4人の子どものうち、すでに中国人と結婚していた異父妹の1人は再び中国へ戻ったが、ルリ子さんら3人はいまも日本で元気に暮らしているという。
 角さんは「あのときは本当に大変でしたが、いまの3人を見ていると頑張ってよかったと思います。当時は政治家の先生ら多くの方に協力していただき、いまも感謝しています」。残留邦人帰国に奔走した日々を振り返り、しみじみと語る。