激しかった空襲を振り返る児玉さん

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「戦後70年たった今も、潜水艦の乗組員1万数千人は誰も知らない深い海の底で"水浸く屍"となって眠っている。胸が締め付けられます」。大日本帝国海軍の特攻隊員だった美浜町吉原に住む児玉五郎さん(92)。出撃することなく終戦を迎えたが、亡くなっていった戦死者への哀悼の思いは、長い年月がたっても消えることはない。

 大正12年3月28日、父覚之助さん、母一乃さんの六男六女の末っ子として川上村(現日高川町美山地区)に生まれた。「人からはやんちゃ坊主そのものと言われましたが、私はおとなしい子どもでしたよ。それを証明してくれる人はみんなもう他界してしまいましたが...」と笑う。昭和16年12月8日の日米開戦後、青年学校に和歌山連隊区から陸軍大佐が査閲官として来校したとき、「高度国防国家建設とは何か」と問われ、多くの青年が「天皇陛下に忠義をささげます」と答えるなか、児玉さんは「自由主義を捨てることであります」と声を大にして答え、大佐は校長先生に向いて「よくぞ立派な青年を育てました。本官は校長先生に感謝します」と敬礼した。当時から一目置かれる存在だった。川原河尋常高等小学校を卒業後、役場で1年ほど用務員をし、16歳で筏乗りになり、杉谷組の一員として朝鮮の鴨線江の支流へ出稼ぎに行った。「朝4時に起きて30㌔ほど歩いて川を上り、編筏現場まで行き、筏に乗って戻ってくるんですよ。雪解けの3月から9月ごろまで半年間生活するんです」。この経験がのちに海軍でも生きる。

 昭和18年5月、20歳で徴兵検査を受け、甲種合格。出征は1年後、19年5月に海軍機関兵として広島県の大竹海兵団に入隊した。同じ日に入隊した約2000人が各部屋に振り分けられ、軍服などの支給を受けているとき係官が近くにいた児玉さんに「皆を集めてこい」と命令。児玉さんが「皆集まりました」と報告すると、「ぼやぼやするな、お前が代表や!」といきなり平手打ちの洗礼を浴びたことは忘れられない。入隊3日目に大竹海軍潜水学校2期生を募集していることを知り、10倍以上の競争率だったが見事に合格。潜水艦乗りとしての勉強と訓練の毎日が始まった。みっちり勉強しながら、海での水泳や棒倒しなど鍛錬に明け暮れた。「10倍の競争率といえば精鋭ぞろいと思われますが、確かにごくわずかな優秀者はびっくりするほど賢かったですが、ほかはどんぐりの背比べですよ」。海軍といえば何をするのも5分前、返事は「はい」以外はなし、失敗すれば連帯責任で「精神注入棒」と書いた八角の樫の木で尻をたたかれる「罰(ばっ)ちょく」(海軍用語)が待っていた。「痛いのなんの、目から火が出る思いですよ。わたしは2度やられました。何の自慢にもなりませんがね」。寝るときはハンモックで、しっかり結びつけなければならず、筏でロープを使うのがうまかった児玉さんは、仲間の分まで締めてやったという。部隊対抗の水泳大会のメンバーに選ばれて団体優勝を飾り、褒美に皆で外出が許されたこともあったが、「集合時間に遅れたために殴られ、失神しました。仲間がこぐ自転車の荷台に乗せられ、校門に着いたときに目を覚ましたことは忘れられません」と苦笑い。本来は2年間勉強するはずだったが、詰め込み教育を受けて10カ月で卒業。配属先の希望には第1から第3まですべて「特攻」と書き込んで志願した。

 20年3月、呉潜水艦基地に配属。ドックに入った潜水艦の機関整備などが主な任務。ここで、「呉軍港第1空襲」を経験することになる。何の前触れもなく、その日は突然やってきた。3月19日の朝食時、軍港基地の食堂で飯を食っていると、空襲警報が鳴り響いた。何事かと窓から外を見ると、「グーン」とうなりを立てて艦載機が目の前を横切っていった。「操縦するアメリカ兵の顔がはっきり見えるほど超低空飛行でした」。慌てて下水管の中に飛び込んだ。「落ちるぞ」との叫び声が聞こえ、すき間から見ると爆弾が落ちたのか「ドカーン」と爆発音が耳をつんざき、窓ガラスが枠ごと一斉に外れて震動しながら吹き飛んだ

 軍港には大和をはじめ多くの艦船が停泊しており、応戦の砲煙で空は曇った。児玉さんらはドック入りしていた潜水艦に走り、水を汲んで10人ほどでバケツをリレーした。熱くなった高角砲の砲身に水をかけるためだ。機銃掃射の弾が「キンキンキン」とはじける音の中を無我夢中で水を運び、「危ないとか死ぬとか、何も思わなかった」。2人前にいた同期生が撃たれ、右腕がなくなった。艦載機の機銃掃射は容赦なく、高角砲の射手も撃たれ、動かなくなった。水をかける必要がなくなり、防空壕へと避難した。「空襲がどれだけ続いたか覚えていません。数十分だったのか、1時間以上だったのか。とにかく激しかった」。空襲が終わり、混乱の中で「元気な者は手伝え」との命令で、倒れている人を次々と車に乗せ、近くの講堂へ運んだ。「講堂は横たわる人で埋め尽くされました。私は『しっかりせえ』『頑張れ!』と叫びましたが、『水、水...』『お母さん』と絞る声が返ってくるだけ。口からも鼻からもプツプツと血の泡が湧いている兵士ばかり。軍医が一人一人の瞳孔を調べ、『バツ』『マル』と診察していた姿は忘れられません」。記録によると、この日の呉軍港空襲では米海軍の機動部隊約350機が襲来。さらに大規模だった7月24日と28日の空襲も含めて、日本の死者は約780人、2000人以上が負傷したとされている。

 この後、呉軍港近くの大浦特攻基地に転属。特殊潜航艇「蛟龍(こうりゅう)」に乗り込んで、敵空母等を襲撃するのが任務だったが、「当時の特攻基地には蛟龍はおろか、まともに出撃できる潜水艦もありませんでした。それに、たとえ潜水艦があって出撃したとしても、豊後水道を抜ければレーダーで敵艦に見つかり撃たれるような状況でしたから」。出撃のないまま1カ月ほどたった日の朝礼時、急に倒れた。急性肋膜炎と診断され、呉海軍病院に緊急入院。目を覚ました枕元で軍医がひそひそ話をしているのが聞こえた。「この様子では連れて行っても三朝(みささ)までもたんぞ」「まあ、本人に聞くだけ聞いてみようか」。三朝の病院に到着するまで命が持つかどうか、それほど重症だと2人の会話から気づいた。「三朝へ行きます」。当時、鳥取県の三朝温泉の旅館はすべて病院となっていた。児玉さんら病人を乗せた軍用列車は呉から三朝へ向かった。出発した日の夜、呉は連合軍の攻撃を受けて児玉さんがいた施設も被害に遭った。「三朝に行かずにとどまっていたら、間違いなく死んでいたでしょう。置いていた私物はすべて焼けましたが、命は残りました」。三朝に到着し、温泉には入るなといわれていたが、どうせ死ぬならとこっそり湯に漬かった。「あの気持ちよかったことは忘れられません」。温泉が効いたのか、翌朝目を覚ますと驚くほど体調がよく、倉吉へ到着するころにはかなり良くなっていた。診察した軍医も回復ぶりに驚いたほどだった。甲板長から「お前がここの甲板助手(院内の見回り役)になれ」といわれ、取り仕切ることになった。病人にも容赦なく罰ちょくをする者がいたので、「ここにおる者は皆病人。罰ちょくは許さない」とやめさせ、児玉さん自身も一人もたたくことはなかった

 玉音放送は分院があった倉吉で聞いた。「ドスを手に腹をなぞっている者もいました」。4、5日経って帰郷することになり、児玉さんが代表して看護師らに「長いことお世話になりました。祖国の復帰に努めます」とあいさつし、「回れ右 倉吉駅へ解散」と号令。130人ほどで駅へ向かい、それぞれの故郷へ戻っていった。途中、天王寺では「まだ降参していない」と息巻く海軍兵士がいたり、和歌山駅では「何でもいいからちょうだい」と多くの子どもたちに手を差し出されるなどし、「御坊へ着いたときは手ぶらになっていました」。戦後は木材会社で働くなどし、美浜町に移り住んでからは町議会議員としても活躍した

 「海軍で潜水艦に携わった者として、亡くなった人たちの最期を思い浮かべると今でも胸が痛みます。潜水艦は隠密、いわば忍者で、どこで沈んだのか誰も知らない。機雷攻撃を受けて浮上不可能となり、真っ暗な中で空気が絶えるまで恐怖と戦ったのでしょうか、あるいは海底深く沈み、ぺしゃんこになってしまったのか。想像すらできない絶望の中、亡くなった人たちがいたということを忘れないでほしい」。戦争は、太平洋やインド洋の深海の底に、いまも悲惨な爪痕を残したままだ。